【別格13番札所仙龍寺近く】奥の院への入口にあたる場所に残されている大きな標石

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第65番三角寺から奥の院(仙龍寺)を目指して山越え。峠を下ってこの場所まで来ると、寺院が近い実感を得ることができます。山中のこちらの区画に中務茂兵衛標石が二基残されています。

 

奥の院仙龍寺近くの標石 奥之院入口

奥の院・仙龍寺への入口は、現在は静かな空間が広がっています

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

奥の院仙龍寺近く標石 正面上部

大きな標石の目立つ部分に記されている前後の行先

<正面上部>
右(指差し)
奥の院 八丁
左(指差し)
三角寺 五十丁

奥の院→別格第13番仙龍寺(せんりゅうじ)
三角寺→第65番三角寺(さんかくじ)
この辺りでは「奥の院」が仙龍寺を指す固有名詞のような感じで使用されていて、口伝えで「奥の院」といえば仙龍寺のこととして伝わります。この場所は三角寺本堂横から坂を登り山を越え、その後の下りを経てこちらの場所に到着したところです。大きな標石なので、上下に分けて記載内容の調査を行います。
前後の行先が記されている部分なのでこちらが正面に相当する面になりますが、歩いて来る順路からするとまず目に入るのは当面ではなく左面になります。

奥の院仙龍寺近く標石 正面下部

京都の中心で暮らす標石リピーターさんによる寄進

<正面下部>
京都三条通東洞院西
施主
中井三朗兵衛
妻 つた
三之助

京都三条通東洞院西(きょうとさんじょうどおりひがしのとういんにし)→現・京都市中京区場之町(きょうとしなかぎょうくばのちょう)
高知県の第31番竹林寺(ちくりんじ)下、五台山小学校(ごだいさんしょうがっこう)角にも寄進されている標石リピーターさんです。名前が三名分あるので家族で寄進されたものであり、時代的に長男の名前が記されているのかなと思います。
※竹林寺下の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【31番札所竹林寺近く】五台山の麓に残された標石は、京都の中心で暮らす人物によるもの

三条通り…東西
東洞院通り…南北
これらの通りが交わる場所は施主の住所ということになりますが、現在のNTT西日本京都支店がある辺り。近くには西国三十三所の第18番札所六角堂(ろっかくどう)がありますが、六角堂(寺号は頂法寺)には京都の中心とされる「へそ石」があるように、この場所は京の中心の中心ともいえる地点です。

「洞院(とうのいん)」とは上皇・法皇の居所を指すもので、平安時代にはこの通り沿いに多くの院があったようです。古くから幹線道路であったため混雑が酷く、江戸時代の享保年間(きょうほうねんかん、1716-1736)には北行の交通規制が実施されました。これは記録に残る中で「日本最古の一方通行」とされます(現在は南行きの一方通行)。

 

標石の右面に表記されている内容

奥の院仙龍寺近く標石 右面

標石背後に見えている石の階段が遍路道で、奥の院への行き来に通ります

<右面>
右(指差し)
箸蔵寺 七里
雲邊寺 五里

箸蔵寺→別格第15番箸蔵寺(はしくらじ)…約28km
雲邊寺→第66番雲辺寺(うんぺんじ)…約20km
次の札所及び広域情報を知らせる面。右面ではありますが、順路でいえばまず目に入るのが左面なのでその真裏に当たるこの部分を目にするのは、奥の院へ行き参拝して戻る際か、もしくは次の札所を目指して行く際に目にするイメージです。

このエリアの標石の特徴である「箸蔵寺」が、やはりここでも、という感じです。ほぼほぼ欠かさず表記されているあたり、欠かすことのできない札所であったでしょうし、お遍路さんももれなく訪れていたことが想像できます。現在の四国遍路と比べて最も巡礼スタイルが変化した部分といえるかもしれません。
※「箸蔵寺」と記された標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【66番札所雲辺寺境内】最も標高が高い場所にたつ中務茂兵衛標石
【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石
【別格14番札所椿堂近く】遍路地図で指定されていない道で見つけた中務茂兵衛標石
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】標石の番外編。愛媛/徳島県界近くに立つ標石
【10番札所切幡寺→11番札所藤井寺】かつて遍路道と伊予街道が合流する地点に立っていた標石
【10番札所切幡寺→11番札所藤井寺】街道と遍路道の分岐点に立っていたと考えられる標石
【別格15番札所箸蔵寺参道】かつての箸蔵街道沿いに残されている中務茂兵衛標石
【70番札所本山寺→71番札所弥谷寺】現在とは異なる東京の姿を考察することができる標石

 

標石の左面に表記されている内容

奥の院仙龍寺近く標石 左面

日清戦争後、ロシアとの激突に備えて日本海側の防備が急ピッチで進められていた時期に建てられた標石

<左面上部>
明治卅四年十月吉良日

明治34年は西暦1901年。20世紀始まりの年ですが、同年同月京都府北部の舞鶴に舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)が開庁しました。日本海側の防衛拠点として、日清戦争の講和条約で得た賠償金の一部を用いて築かれたものですが、時は日露戦争前(1904年2月開戦)の世界。ロシアと対峙する日本海沿岸の防衛が特に重要視されていたいました。
結果的に舞鶴が戦場になることはなく、戦後は外地から日本本土の地に戻ることができた引揚者のうち、1割にあたる約66万人が舞鶴に上陸。特に旧ソ連軍によってシベリアに抑留されていた軍人・一般人のエピソードは広く知られ、「岸壁の母」として映画化されました。

奥の院仙龍寺近く標石 左面下部

複数目にすることができる世話人の名が見える

<左面下部>
世話人
當村 横内友吉
三嶋村 森実春治

三嶋村→旧・伊予三島市→現・四国中央市
施主がリピーターなら、世話人もリピーター(と表現しては失礼なのですが)さん。「森実(實)春治」さんの名前は、このエリアに残されている標石でしばしば目にすることができます。
※同じ世話人の標石は、以下リンクの記事でご紹介しています。

【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】遠く土佐國まで続く旧土佐街道沿いに残されている標石

森実は一般的には「もりざね」と読みますが、四国中央市付近で目にすることができる姓。同市内妻鳥町(めんどりちょう)の小字(こあざ)に森実という地区があり、そこが発祥ではないかと思います。伊予土佐街道と阿波街道が分かれる地点で、現在も町内で国道11号(讃岐・伊予・土佐)と国道192号(阿波)が分岐しています。

四国中央市の名前は、いわゆる平成の大合併によって平成16年(2004)4月に誕生した市名。
高知市…約60km
高松市…約70km
松山市…約80km
徳島市…約100km
街道に由来する国道や高速道路が分岐している点や、各県の県庁所在地に大きな誤差なくアクセス可能であることから命名された新しい地名。新市名の投票では「四国中央市」は5位だったにも関わらず採択。新市名の再考を求める署名が1万通以上も集まったにも関わらず強行された経緯があります。ちなみに住民投票では1位・2位は「宇摩市」「うま市」、当地が属する郡名が支持を得ていました。
地域の産業としては製紙業が盛んで、紙製品の出荷額では何年にも亘って出荷額日本一を誇ります。

 

標石の裏面に表記されている内容

奥の院仙龍寺近く標石 裏面上部

こちらの石においては「奥の院」と記されている部分が二面存在する

<裏面上部>
左(指差し)
奥の院
是より八丁

この場所は奥の院への入口に当たる地点。周辺では階段整備や左右に対称となる形で敷地が設けられているあたり、時代によってはこの場所に山門がたっていた時代があるかもしれません。

奥の院仙龍寺近く標石 裏面下部

遍路キャリア中盤から後期にかけての功績

<裏面下部>
壱百八拾五度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教

中務茂兵衛「185度目/279度中」の四国遍路は自身57歳の時のものです。

 

周辺で目にすることができる標石や石板

奥の院仙龍寺近く標石 石板PR文

各所で目にすることができる奥の院キャッチコピー

右(指差し)
奥之院へ八丁
毎夜御本尊の御開扉●護摩乃修行があります
通夜をなし御利益を受けなさい

先の標石の近くにあるものでこれが茂兵衛さんによるものかどうかは分かりませんが、四国中央市周辺に残されている石を中心に見ることができる奥の院のPR文が、ここでも記されています。

奥の院仙龍寺入口 標柱

石の大きさは奥の院繁栄の証左

準別格本山
四國奥之院
金光山仙龍寺

奥之院の山号・寺号が記されている大きな石柱。ここでいう「別格」は別格二十霊場を表したものではありません。真言宗の宗派区分です。

奥の院仙龍寺近く標石 標柱 伊藤萬蔵

寺社寄進面では日本を代表する篤志家による石柱

大正三年甲寅
三月廿一日建立
名古屋市西区塩町
施主 伊藤萬蔵

大正3年は西暦1914年。同年同月21日、この石と2日違いで完成したのが中央停車場。佐賀県出身の辰野金吾(たつのきんご/1854-1919)にって建てられた、現在の東京駅丸の内口です。同氏はその後、先の世界的感染症であるスペインかぜに罹患して亡くなられています。

こちらの石の寄進を行ったのは伊藤萬蔵(いとうまんぞう/1833-1927)さん。西国三十三所・四国八十八ヶ所を始め全国の寺社に様々な形で寄進を行った、明治・大正期の篤志家(とくしか)です。本業は名古屋に居を構える商人で中務茂兵衛とは全く異なる境遇ですが、活躍した時代は茂兵衛さんと同時期。四国の中では「施主…伊藤萬蔵、願主…中務茂兵衛」のように両者が手を取り合って建てた標石も残されています。
※伊藤萬蔵氏に関しては、以下リンクの記事でもご紹介しています。

【伊藤萬蔵】全国の社寺に広く寄進を行った人物のおはなし
【28番札所大日寺→29番札所国分寺】伊藤萬蔵×中務茂兵衛合作の標石

※この標石があるすぐ近くの便利情報が刻まれた中務茂兵衛による石板は以下リンクの記事でご紹介しています。

【別格13番札所仙龍寺近く】かつてこの場所に茶店や旅籠があったことが分かる石板

※※奥の院・仙龍寺に関しては以下リンクの記事でも触れていますので、ぜひご覧になってみてください。

奥の院の告知文が記されている標石
【17番札所井戸寺→18番札所恩山寺】施主の職業が記されている標石
【73番札所出釈迦寺→74番札所甲山寺】三つの札所が一面に併記されている中務茂兵衛標石
【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石
【3番札所金泉寺近く】遠く離れた奥の院仙龍寺の情報が刻まれた標石

三角寺及び奥の院が表記されている標石
【別格14番札所椿堂近く】遍路地図で指定されていない道で見つけた中務茂兵衛標石
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】標石の番外編。愛媛/徳島県界近くに立つ標石 ※中務茂兵衛標石ではない

三角寺から奥の院への遍路道及び奥の院
【別格13番札所仙龍寺への遍路道】奥の院と呼ばれる古刹へ
【別格13番札所仙龍寺】奥の院と呼ばれる古刹へ
【別格13番札所仙龍寺】山奥深く清滝をいだく仙人の住処は奥の院にふさわしいたたずまい

 

【「奥の院・仙龍寺近くの標石」 地図】

この記事を書いた人

野瀬 照山
四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。