70番札所本山寺から71番札所弥谷寺に向かう旧道のため池近く、奥には善通寺五岳山の一部が見えるロケーションに立つ中務茂兵衛標石。こちらの石からは、現在とは随分違う東京の歴史を知ることができます。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
右(指差し)
本山寺
本山寺→70番札所本山寺(もとやまじ)
標石正面の最も目立つ部分に指差しと札所名。これぞ正面という存在感です。ただしこちらの醍醐味はその部分ではありません。
<正面下部>
東京府豊多摩郡大久保
●●佐壬●山﨑成高
施主妻●さ
東京府豊多摩郡大久保(とうきょうふとよたまぐんおおくぼ)→現・東京都新宿区大久保
東京府…明治元年(1868)-昭和18年(1943)
大政奉還により江戸が東京と改称され発足した府県。現在の東京都と異なり、発足当時の府域は旧江戸城周辺(現在の千代田区付近)に限られていました。また当時は「とうきょう」より「とうけい」の呼び名が一般的だったようです。これは旧幕臣や江戸庶民、いわゆる江戸っ子たちが上方風の「きょう」の呼び名を嫌い積極的に「けい」を用いたとされます。時代が下るにつれ公式名称である「とうきょう」に統一されていったようですが、明治初期の文学作品では作家や作風などにより「とうけい」の呼び名を目にすることができます。
豊多摩郡…明治29年(1896)-昭和7年(1932)→現・渋谷区、杉並区、中野区、新宿区の一部
豊多摩郡自体は昭和7年10月に東京市に編入され消滅しましたが、杉並区にある都立豊多摩高等学校の名称に豊多摩の名が残されています。
現在の地名イメージで考えると大繁華街の渋谷区や、23区の中でも人口が多いほうである杉並区で昭和の始めまで市制が施行されていなかったのは不思議に思うところ。しかしながらこれらの地名「渋谷」「大久保」他にも調べれば出てくると思いますが、どちらも平地を指す地名ではありません。渋い谷と聞いて良さそうな場所に思えませんし、大久保にしても大きく窪んだ土地→低い土地は水が溜まり易い。東京(江戸)の歴史は治水の歴史でもあるので、こちらも居住するにはいかにも使い勝手がよくなさそうな地名です。
それゆえ標石建立の明治31年(1898)当時は開発の手がつけにくい地域で、市への編入が遅れた一因かもしれません(建立年は右面に記載)。
現在は東京から四国八十八ヶ所参りに来られる人々を大勢見ることができますが、この時代は珍しい存在。施主名をはっきり見て取ることができますが、その上に記されているのは屋号でしょうか。「佐壬屋?」のようにも見えます。この時代に庶民が個人で標石を寄進することはもちろん、東京で四国遍路に精通しているとなると、ますます希有な存在であるように思います。
※「東京」の施主が建立した標石に関しては、以下リンクの記事で紹介しております。
【88番札所大窪寺→1番札所霊山寺】四国一周を目指して進む道中にある中務茂兵衛標石
【阿波驛路寺・打越寺門前】土佐街道沿いに置かれた標石
【76番札所金倉寺門前】金倉寺山門で見ることができる規格外の中務茂兵衛石柱[右]
標石の右面に表記されている内容
<右面>
明治卅一年八月吉日●立
明治31年は西暦1898年。同年12月1日に「淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)」が竣工。東京において近代水道の供給が始まりました。
淀橋浄水場は昭和40年(1965)3月に廃場になり、その跡地には「新宿中央公園」や「東京都庁」等が立っています。現在の感覚では新宿駅から近く高層ビルが立ち並ぶエリアに浄水場、それも東京都民の上水を賄うほどの広大な施設が?と疑問に思う点。しかしながら開場当時の新宿駅西側は、専売公社(現JT)の工場や人家がぽつぽつある閑散とした地域。土地が低いという居住する上での欠点も貯水池を設けなければならない浄水場とすれば利点でした。
淀橋浄水場は豊多摩郡淀橋町に位置していましたが施設は東京市水道局のもののため、旧豊多摩郡地域は開場から長い間近代水道の恩恵を受けることができなかったようです。前述の施主住所として記されている大久保町もその地域に含まれます。浄水場がある淀橋町に関しては、ほぼ土地を提供するだけに留まっていました。旧豊多摩郡域に導水が行われるようになるには、昭和6年(1931)の東京市編入まで時間を要しました。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
箸蔵寺
壱百六拾四度目為供養建之
周防國大島郡椋野村住
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「164度目/279度中」の四国遍路は自身54歳の時のもの。
こちらの面の特徴は「箸蔵寺」が挙げられます(→別格15番札所箸蔵寺)
正面の「本山寺」に対してこちらは字の向き・フォントが異なるような気がするので、後年の追記かなあという印象を受けます。また標石が立っているこちらの交差点を標石が「箸蔵寺」と指す方向へ進んだとしても、自然な順路で箸蔵寺へ行けるとは言い難いところです。そうなると別の位置に立っていた物なのかなと考えられるところですが、すぐ南にある
香川県道226号財田西豊中線→香川県道・徳島県道5号観音寺池田線→国道32号
と進めば自然な形で箸蔵寺へ行くことができます。
それにしても、箸蔵寺と本山寺が対になっているのが理解できません。
66番札所雲辺寺(うんぺんじ)→箸蔵寺→猪之鼻峠(いのはなとうげ)→第70番本山寺
と進めば「67番札所大興寺(だいこうじ)・68番札所神恵院(じんねいん)・69番札所観音寺(かんのんじ)」を打ち逃してしまいます。
徳島方面→11番札所藤井寺(ふじいでら)→吉野川を遡上→箸蔵寺→(打戻)→藤井寺
愛媛方面→境目峠→箸蔵寺→(打戻)→雲辺寺口→第66番雲辺寺
香川方面→善通寺→金刀比羅宮→満濃池→猪之鼻峠→箸蔵寺→(打戻)→善通寺
単体で箸蔵寺を参拝する場合はともかく、どの場所から向かっても打戻りか打ち逃しが発生してしまうのが箸蔵寺の位置。果たして昔のお遍路さんはどのようにして箸蔵寺を参拝していたのでしょうか。打戻は止む無しだったのでしょうか。
※「箸蔵寺」と記された標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しております。
【66番札所雲辺寺境内】最も標高が高い場所にたつ中務茂兵衛標石
【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石
【別格14番札所椿堂近く】遍路地図で指定されていない道で見つけた中務茂兵衛標石
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】標石の番外編。愛媛/徳島県界近くに立つ標石
【10番札所切幡寺→11番札所藤井寺】かつて遍路道と伊予街道が合流する地点に立っていた標石
【10番札所切幡寺→11番札所藤井寺】街道と遍路道の分岐点に立っていたと考えられる標石
【別格15番札所箸蔵寺参道】かつての箸蔵街道沿いに残されている中務茂兵衛標石
近くにある標石
中務茂兵衛標石の反対側、集会場の敷地には四国霊場を記す石板が残されていました。
屛風浦遍んろ道
左(指差し)
願主
九州肥前國唐津町
小宮瀧左エ門
「屏風浦(びょうぶがうら)」とは多度津町白方(たどつちょうしらかた)周辺の海岸名を示す場合と、大師生誕の地・屛風ヶ浦海岸寺(かいがんじ)を指す場合がありますが、ここでは「遍んろ」と付けられているので後者の意味でしょうか。もし行くとなれば71番札所弥谷寺(いやだにじ)へ行き境内から山越えの道を選択すると、峠を越えて海岸寺へ行くことができます。「大師生誕地詣り」のような意味合いがあります。
71番札所弥谷寺→海岸寺→72番札所曼荼羅寺(まんだらじ)
こちらは直接71→72と進むのに比べて距離増にはなりますが、前述の箸蔵寺のような打戻ケースは発生しません。
九州肥前國唐津町(きゅうしゅうひぜんのくにからつちょう)→現・佐賀県唐津市
明治22年(1889)4月…東松浦郡唐津町発足
昭和7年(1932)1月…市制施行
唐津町となっているので市に昇格するこの期間中に建てられたもので、向かいの中務茂兵衛標石とそう変わらない時期に建てられたものと思われます。当記事では「東京」「佐賀」の地名が登場しますが、両者の縁として東京駅丸の内口は唐津出身の建築家である「辰野金吾(たつのきんご、1854-1919)」によって設計されたというエピソードがあります。
肥前國は現在の長崎県・佐賀県に相当する地域ですが、長崎と聞いて真っ先に思い浮かぶのは「教会」
それは間違いないところですが、長崎県北部や佐賀県北部の玄界灘周辺エリアはお大師さまが遣唐使として船出したゆかりの地ということもあってか、これらの地域にとって四国八十八ヶ所参りは一般的なようです。
【「71番札所弥谷寺への旧道ため池近くの中務茂兵衛標石」 地図】