愛媛/徳島の県境に位置する番外霊場・椿堂常福寺(別格第14番)。疫病が流行った際にその平癒を大師が祈祷した霊場ですが、その参拝を終えて寺を出発してすぐの三叉路の角に記載内容が充実した中務茂兵衛標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
右(指差し)
雲邊寺
箸蔵寺
次の66番札所雲辺寺の案内に加えて、更に番外霊場であり四国別格二十霊場の15番札所である「箸蔵寺(はしくらじ)」が記されています。
現代では椿堂の先で伊予・阿波の國境である境目峠(さかいめとうげ)を越えてから、四国八十八ヶ所霊場最高所の札所がある雲辺寺山(うんぺんじさん、標高927m)を目指しますが、昔々は雲辺寺口を一旦通り過ぎて箸蔵寺へ。参拝後に打ち戻って雲辺寺登山。という順路がとられていました。
と言うは易しですが、そのための距離片道約20kmは一日で往復できるかどうかの距離。すなわち一泊分と一日分の時間がそれぞれ加算されます。それでいて打戻なので同じ道の往復は心理的に堪えるところ。現在はその巡礼ルートがあまり認知されないので、このタイミングで箸蔵さんへ行かなくても後ろめたさはありませんが、昔のお遍路さんは頭を悩ませたことと考察します。
箸蔵寺に関しては「金毘羅奥の院(こんぴらおくのいん)」でもあるので、
75番札所善通寺→金刀比羅宮(明治以前は金毘羅大権現、こんぴらさん)→財田(さいた)→猪之鼻峠(いのはなとうげ、阿讃國境)→箸蔵寺
阿讃國境の峠・猪之鼻峠を越えて箸蔵寺へ至る巡礼ルートも存在しました。こちらは「四国八十八ヶ所参り」というよりは「金毘羅詣(こんぴらもうで)」拡大版のイメージです。
お遍路さんが四国八十八ヶ所参りとして猪之鼻峠越えのルートを取る際は、こんぴらさんと財田の間で大師が改修した「満濃池(まんのういけ)」への立ち寄りも、理由の一つにあったと考えることもできます。
<正面下部>
三つの角うれしき毛乃者道越しへ
(みつのかど うれしきものは みちおしえ)
四国遍路における標石最大の役割は「次の札所の告知」
順打ちで椿堂から来るとまず見えるのがこちらの面ですが、ご覧の通り横の電信柱を支えるワイヤーが重なっていることや、背後にある椿堂常福寺の大きな看板が影になり、記載内容が見難くなっています。通常は石の裏側に刻まれることが多い添句があることからも、こちらの面が裏側のような雰囲気があります。
標石の右面に表記されている内容
<右面上部>
左(指差し)
奥の院
是より一里半余
こちらの石がある愛媛県四国中央市は中務茂兵衛標石の密集地帯ですが、そこで最も多くみることができる情報が「奥の院」。すなわち仙龍寺(せんりゅうじ、別格13番)への案内です。
<右面下部>
毎夜御自作厄除大師尊像のご開帳あり霊場巡拝の信者は一夜の通夜をして御縁結び現當二世の利益を受けらるべし 中務義教誌
(まいやごじさくやくよけだいしそんぞうのごかいちょうあり れいじょうじゅんぱいのしんじゃはつやをしてごえんをむすび げんとうにせいのりやくをうけらるべし)
奥の院仙龍寺がある愛媛県のみならず、四国各地に残されているいくつかの石で見ることができる文言。こちらは65番札所三角寺(さんかくじ)から向かうのであれば、プラス一日・一泊という点では前述の箸蔵寺と同じ。けれどこちらは「總奥の院(そうおくのいん)」とまでいわれているあたり、外すわけにいかなかったようです。巨大な参籠所(さんろうじょ)として発達した点からも窺い知ることができます。
こちらの石には施主の記載がありませんが、奥の院がその役割。現在の図式に当てはめると「スポンサー」であり、上記の文言は「キャッチコピー」。それの「ブローカー」が茂兵衛さんだと思われます。
※仙龍寺への案内が示されている標石は、以下リンクの記事でご紹介しています。
【3番札所金泉寺近く】遠く離れた奥の院仙龍寺の情報が刻まれた標石
【17番札所井戸寺→18番札所恩山寺】施主の職業が記されている標石
【73番札所出釈迦寺→74番札所甲山寺】三つの札所が一面に併記されている中務茂兵衛標石
標石の左面に表記されている内容
<左面>
明治卅四年六月吉辰
世話人
当村
大西勝蔵
大西金蔵
三島
森実春治
明治34年は西暦1901年。同年6月2日、第一次桂太郎(かつらたろう/1848-1913)内閣が成立しています。
第11代「桂太郎」
第12代「西園寺公望」
第13代「桂太郎」
第14代「西園寺公望」
第15代「桂太郎」
「山縣有朋(やまがたありとも/1838-1922)」派の桂太郎と、「伊藤博文(いとうひろぶみ/1841-1909)」派の両氏が交互に政権を担当したことから「桂園時代(けいえんじだい)」と呼ばれる。
こちらの石の施主(スポンサー)は前述の奥の院仙龍寺のようですが、建立に尽力した「世話人」らが記されています。
左側の「三島」の地名は静岡県三島市など全国に数多存在しますが、近隣の地名と仮定すると旧伊予三島市があります。現在は隣接する旧川之江市と共に四国中央市を構成しています。
標石の裏面に表記されている内容
<裏面上部>
右
上分
川の江
三島
上分(かみぶん)→愛媛県四国中央市上分
現在、松山自動車道のパーキングエリアに「上分パーキングエリア」があります。旧川之江市内陸部の地域です。
川之江・三島を含む四国中央市全域が、国内有数の製紙産業地帯。左面で名前が記されている世話人さんたちも、製紙業に従事されていた方々かもしれません。
<裏面下部>
臺百八十四度目為供養
周防國大島郡椋野村
施主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛184度目(279度中)の四国遍路は、自身57歳の時になります。
ここでは茂兵衛さんの肩書が「施主」になっています。88度目や100度目など、表記内容が定まっていない最初期の標石では「施主」「願主」「世話人」の区別が曖昧なものが存在しますが、ある程度規格化されたこの回次ではいかがでしょうか。「世話人」はともかく「施主」と「願主」の違いをそこまで深く考える者はほとんどいないでしょうから、これで良いともいえます。単純に石工さんが字を掘り間違えたと考えることもできます。
実際に出資者・中務茂兵衛だったのであれば、
「毎夜本尊御自作…」
の下りは、施主・中務茂兵衛としての「フリートーク」コーナー。私財を投じてでも伝えたかった当地における最重要事項が、奥の院仙龍寺への参籠だったということになります。
【「椿堂近くの三叉路の中務茂兵衛標石」 地図】