31番札所竹林寺がある五台山から下山した地点の五台山小学校の角に金枠で補強された中務茂兵衛標石が残されています。石に刻まれている情報を読み解くと、京の中心で暮らす人物の寄進であることがわかります。
中務茂兵衛 < 弘化2年(1845)4月30日 - 大正11年(1922)2月14日 >
周防國大嶋郡椋野村(現 山口県周防大島町)出身。
18歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて 一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は 歩き遍路最多記録 と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
標石(しるべいし)
周防國大島郡椋野村(すおうこくおおしまぐんむくのむら)
第31番竹林寺(だい31ばんちくりんじ)
第32番禅師峰寺(だい32ばんぜんじぶじ)
峰寺(みねでら)
播磨(はりま)
播州(ばんしゅう)
讃岐(さぬき)
讃州(さんしゅう)
五臺山・五台山(ごだいさん)
三條通(さんじょうどおり)
東洞院(ひがしとうのいん)
西國第18番頂法寺六角堂(さいごくだい18ばんちょうほうじろっかくどう)
池坊(いけのぼう)
礎石(そせき)
へそ石(へそいし)
標石の裏面に表記されている内容は
左
高知
臺百八十五度目為供養
防國大島郡椋野村住
發願人中務茂兵衛義教
標石中央部にクラックが入り、補強が施されたものと考えます。
見たところお決まりの「周防國」の「周」の字が見当たりませんが、若干省略されているのでしょうか。例えば播磨であれば、呼び名としては播州の方が一般的であり、讃岐も讃州と記す。それと似た感じかどうか。
185度目は、中務茂兵衛57歳の四国遍路です。
標石の右面に表記されている内容は
明治三十四年十二月吉辰
西暦1901年。21世紀最初の年。
同年同月、田中正造が足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴しています。
見王多世は罪も幾へルリ法乃道
(みおたせは つみもきえるり ほうのみち)
こちらの標石下部には添句が記されていますが、当面は後ろの壁と近く見えにくい。
句の意味は、四国遍路に身を投じると、やがて罪状も消滅する。というような意味でしょうか。
標石の左面に表記されている内容は
五臺山
京都三條通東洞院西入
(屋号)
施主中井三郎兵衛
五臺山(五台山)は、31番札所竹林寺の山号。高知市街を一望する標高146mのお山。
京都三條通東洞院西(きょうとさんじょうどおりひがしとうのいんにし)
三條通は「♪あねさんろっかくたこにしき♪」のわらべ歌で知られる、南北の通り。
東洞院は烏丸通の一本東側にある通り。
これらの地点を重ね合わせてみると、現在のNTT西日本京都支店や、西國第18番六角堂(頂法寺)、華道の家元・池坊などがある場所。まさに京の中心と言える場所ですが、それを裏付けるものとして存在するのが六角堂のそばにある「へそ石」。かつての六角堂の礎石と伝えられるものですが、平安京を造営する際に旧六角堂の位置が計画された街路にあたるため取り壊しの話が浮上したが、堂がそれを察知して僅かに北へ動いた。以来、上物の無くなった礎石は「へそ」と称され、京都の中心として知られることとなった。
この標石は、そんな洛中人によるものです。
【「へそ石」 地図】
標石が立つ学校の角から五台山小学校の校舎を眺めると、竹林寺の五重塔が見えます。非常に大きな堂塔ですが、市街地がある北側からは見えません。
標石の正面に表記されている内容は
峰寺
為中井氏先祖代々菩提
峰寺とは、32番札所禅師峰寺のこと。読み方が難解なため、「みねでら」「みねじ」等、地元では通称で呼ばれるのが一般的です。
【「五台山の麓の中務茂兵衛標石」 地図】