65番札所三角寺を目指して東へ向かって進んでいると中務茂兵衛標石があります。この場所はかつての金毘羅街道沿い、民家に引き込まれるような形で立つ姿が印象的で、記載内容から地域住民の寄進により建立されたことがわかります。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面>
右(指差し)
金刀毘羅
三角寺
道
金刀毘羅(ことひら)→現・金刀比羅宮(ことひらぐう)
三角寺→65番札所三角寺(さんかくじ)
この場所は64番札所前神寺(まえがみじ)から65番札所三角寺の間で、かつての金毘羅街道沿い。この辺りの遍路道は旧街道と重複する形になっています。江戸時代の街道名のルールは、自身が向かっている方角を指して用います。すなわちこの道でこんぴらさんを目指していれば「金毘羅街道(こんぴらかいどう)」。松山を目指していれば「伊豫街道(いよかいどう)」となります。
四国の場合は「全ての道は金毘羅に通じる」とさえいわれていたので、伊予・土佐・阿波から讃岐の金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん、現・金刀比羅宮)を目指す道であればそれらは全て「金毘羅街道」。現代は一道一名称が通例です。
金刀比羅宮(公式)
金刀毘羅宮
琴平宮
こんぴらさん
金比羅山
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明治の神仏判然令(1868年)を受けて金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)から金刀比羅宮に改名されましたが、現在に至るまでその名称や表記は混在している印象。こちらの標石もそのようです。宗派も神仏習合から神道に代わっていますが、そこは日本人の良いところ。ありがたいものは神も仏も同じとあまり気にしている印象はないように感じます。
標石の右面に表記されている内容
<右面上部>
一百度為供養
中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のもの。
<右面下部>
周防大島郡椋野村
中務茂兵衛義教
通常巡拝回次と茂兵衛さんの記名は通常同じ写真で紹介していますが、大きい石なので上下に分けております。
標石の左面に表記されている内容
<左面上部>
是より心光寺へ
心光寺(しんこうじ)はこちらの家屋の北側に隣接している寺院。八十八ヶ所には存在しない浄土真宗の宗派寺院ですが、そこのところは関係なく金毘羅街道、もしくは遍路道を示すものとして標石を寄進されたようです。
<左面下部>
当地施主
森高好太郎
仝●●
仝●●
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左面下部には「当地施主」のカテゴリーで石を寄進した方々の名前がたくさん記載されていますが、こちらの方々は心光寺の檀家さんたちなのかなと感じます。
標石の裏面に表記されている内容
こちらの標石は民家の外壁にポケットを作った部分に立っていて、裏面には年次の記載があります。角度的に写真を撮ることはできなかったのですが、
<裏面>
明治二十一年十二月建之
好井清裕
となっていました。
明治21年は西暦1888年。同年同月3日、香川県が愛媛県から独立する形で43番目の県として誕生しました。これを以って県が全て出揃ったと言えます(戦後に再設置された沖縄県を除く)。
【「地元民による金毘羅街道沿いの中務茂兵衛標石」 地図】