令和7年(2025)は第二次世界大戦が終結して80年という区切りの年ですが、高知県南国市に現代でも見ることができる戦争遺構「掩体」があります。戦闘機を守るために造られた掩体を見学することで、平和の尊さをあらためて感じました。

高知県南国市前浜地区では、戦時中に戦闘機を守るために造られた掩体(えんたい)を見ることができます。
掩体と旧日章飛行場

7基の掩体を見ることができるのは、高知県中央部に位置する南国市前浜地区で、この写真では田んぼの中に7号掩体と、その右に高知龍馬空港の管制塔が見えています。
掩体を見ることができるのは高知県の中央部に位置する南国市(なんこくし)です。四国八十八ヶ所の29番札所国分寺があるのが南国市ですが、掩体群があるのはその場所や遍路道からは離れていて、32番札所禅師峯寺や隣の香南市にある28番札所大日寺が最も近くに位置している札所になります。
掩体とは、戦時に敵の攻撃から航空機や兵士を守るために作られた施設のことです。「掩」はあまり見慣れない字ですが「覆う、隠す」のような意味があります。
掩体の近くには高知龍馬空港がありますが、その前身は昭和19年(1944)に設置された日章第一海軍航空基地で、掩体はそこを拠点とする戦闘機を保管するために周辺に建設されました。この時、香美郡三島村の大部分が接収され、住民は強制退去になっています。

赤い点が掩体があった位置で、それぞれが滑走路に続く道沿いに建設されていることがわかります。
通常、軍用飛行場には戦闘機を保管する格納庫が設けられますが、仮にその場所を敵国に知られ重点的に爆撃されたら数十数百機の戦闘機を一度に失います。また、いざ出撃となった際に保管してある戦闘機を一斉に出せるのかといえば、それはなかなか難しいものがあります。
そのためリスク分散と1分でも1秒でも早く戦闘態勢を取ることができるように、全国各地の軍用飛行場周辺には掩体が築かれました。四国だと松山空港近くにも掩体が3基残されています。
高知に現存する掩体群は、滑走路の位置から考察するに写真の図の左の円形の区画ではなく、滑走路下のはみ出た区間にあったものと思われます。南国市の現存7基の掩体群は、全国的に見ればまとまった個数ではありますが、終戦直後にはもっと多くの掩体が有ったことが考えられます。
見学することができる掩体

実際に掩体に近寄ってみたいと思います。
全国各地の旧軍用飛行場の近くで見ることができる掩体ですが、多くの場合は後身の空港敷地内や、土地ごと払い下げられて私有地にあるなど、近寄ることができないものがほとんどです。

掩体群の案内看板が設置されている前浜防災コミュニティーセンターには自動車を停めさせていただくことができるので、掩体見学の拠点になる場所だと思います。
南国市の掩体も7基あるうちの半数以上は田や畑の中にありますが、1基が公園として整備されているので近づいて観察することができます。

通称5号掩体は「掩体公園」として整備され、安全に近寄ることができます。
掩体には陸軍仕様と海軍仕様がありますが、前浜掩体群は後者の海軍仕様です。
陸軍仕様:前面に壁が無い
海軍仕様:前面に壁が有る
大別するとその部分が異なります。
海軍仕様の前面の壁は、爆風から戦闘機を守るために設けられたものです。陸軍用は前面に壁を設けないかまぼこ型で、爆風を防ぐために掩体自体を掘り下げて造ることが多かったようです。シンプルなのは陸軍仕様で若干掘り下げられている分、陸軍仕様のほうが小さく見えます。

掩体に戦闘機が格納されている時のイメージイラストや、掩体の大きさが紹介されています。
私は実際に掩体へ戦闘機が格納されている姿を見たことがありませんが、在りし日は掩体がこんな感じで運用されていたことが、5号掩体前に設置されている案内板からわかります。

5号掩体は内部に入ることもできます。
南国市の掩体は戦後に元の地主に返還されたか、民間に払い下げられたものが多いようです。それは掩体自体が返還や売りに出されたわけではなく、掩体付きの土地だったということを意味します。「土地を返す(売る)けれど掩体ごともらってね」、言うなればわけありの土地だったということですね。
掩体は使わないからといっても撤去が容易ではありません。そもそもが爆撃から戦闘機を守るために造られたものなので相当頑丈なので、ちょっとやそっとでは壊せません。文化財として残しているよりかは、壊せなくて今に至るという方が正しいように思います。
なので、掩体を倉庫として使用している例がしばしば見られます。実際にこちらの5号掩体は公園として整備されるまでは、農機具置き場として使用されていたようです。

こちらの掩体の最大の特徴が、内部の天井に見ることができる木目で、その理由は掩体の造り方にあります。
掩体を造る時は、まず土を運んで掩体型の小山を築きます。この作業は近隣の学生など勤労奉仕によって賄われたようです。その後、板や土のうを敷き詰めた上にコンクリートを流し込み、それが固まったところで土を取り除くと完成です。
ただそのままでは掩体であることが丸分かりなので、上部を植物で覆ったり迷彩塗装を施すなど擬装が行われました。
未確認ではあるのですが、南国市の掩体群を見ていても鉄筋が見当たりません。建造から80年以上経って各掩体に所々劣化が見られるのですが、鉄筋が露出しているのを見たことがありません。もしかすると無筋の可能性があります。
こちらの掩体が造られた時期は戦局が相当悪化していて、その中でも最も不足していたのが鉄材なので、世の中には鉄橋を架けるのがままならず、竹材を用いた竹筋コンクリート橋と噂される橋さえ存在する時代です。こちらの掩体が無筋で造られたことは十分考えられます。
※高知県南国市にのこされている掩体を詳細に見学した様子が以下リンクの記事に続きますので、こちらもぜひご覧ください。
【高知県南国市】高知龍馬空港近くで見ることができる戦争遺構「掩体」 [後編]
【「前浜5号掩体」 地図】