令和7年(2025)は戦後80年の節目の年です。高知県南国市で見ることができる戦争遺構の掩体群のうち、近寄って見学が可能な掩体をいくつか詳細に見ていきたいと思います。

掩体とは戦時に敵の攻撃から航空機や兵士を守るために作られた施設のことで、「掩」はあまり見慣れない字ですが「覆う、隠す」のような意味があります。
※高知県南国市にのこされている掩体の概要に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【高知県南国市】高知龍馬空港近くで見ることができる戦争遺構「掩体」 [前編]
前浜1号掩体

写真手前が1号掩体で、奥の黄色い建物が掩体群の案内がある前浜コミュニティセンター、その左にあるのが2号掩体です。
高知県南国市の前浜地区にのこされている7基の掩体群のうち最も南にあるのが1号掩体です。他の6基の掩体が東か南を向いているのに対して、1号掩体だけが西向きに建っています。
その理由は、滑走路へ繋がる誘導路の都合によるものと考えられます。他に理由を考えるとすれば、全てが同じ方向を向いていると敵国からすれば襲撃しやすい点でしょうか。
大型の戦争遺構は時代時代によって向きがあります。すなわち造られた時代に敵とされていた国が、どっちの方向にあるのかが関係します。
明治維新以降の敵国はソ連(ロシア)かアメリカになりますが、日露戦争までは前者だったので、砲台などは北向きに造られているものが多いです。これが昭和時代になってから造られたものは仮想敵国がアメリカなので、南向きに造られているものを多く見ることができます。
とはいえ、砲台やトーチカと違って掩体自体が武装されているわけではないので、必ずしも南を向いている必要はないように思うので、それぞれの掩体の向きが異なるのは襲撃された時のリスク分散でしょうか。

現在は持ち主の農機具庫として活用されている1号掩体のふたつ目の特徴は機銃掃射痕が見られることです。
1号掩体は現在は畑の中にあるので、接近して見学することができないのですが、前面の壁に夥しい数の機銃掃射痕を見ることができます。

望遠で写真を撮影すると、前面の機銃掃射痕がよくわかり、1号掩体には米軍艦載機から受けた機銃掃射痕が約60ヶ所もあるようです。
高知県が受けた最も大規模な空襲は、昭和20年(1945)7月4日の高知大空襲ですが、それは家屋を焼き払うための焼夷弾攻撃でした。前浜には軍用飛行場があったので、それの破壊を目的とする爆撃、もしくは機銃掃射がたびたび行われ、大きな被害を受けたことが記録されています。
機銃掃射痕は他の掩体では見ることができない特徴です。1号掩体だけが異なる方角を向いていることから、狙われたのでしょうか。もっとも前浜の掩体は全体で40基ほどあったようなので、現存していない掩体へも攻撃が行われたと思います。現存する1号以外の掩体も近寄れなかったり、草木が繁茂していて確認できていないだけで、同様の痕跡を見ることができるかもしれません。
<1号掩体の主な特徴>
・7基ある掩体のうち、1号掩体だけが西を向いている
・掩体前面の壁に米軍艦載機による機銃掃射痕が見られる
前浜4号掩体

大型爆撃機を格納することができる4号掩体は、国内に現存する掩体で最大級の大きさを誇ります。
掩体群で最も西側に位置しているのが4号掩体の特徴は、他と比べて倍以上の大きさがある点です。

4号掩体も現在の持ち主さんに農機具として活用されているようです。
4号掩体:幅44m、奥行23m、高さ8.5m
それ以外の6基:幅22m、奥行12m、高さ5m
4号掩体に関しては大型の爆撃機も格納することができる大きさです。

大きな4号掩体は、南側にある高知県道14号春野赤岡線からもよく見えます。
軍用飛行場には、
①そこから爆撃機が飛び立って目標に攻撃を加えるための基地
②そこに局地戦闘機が待機して敵の攻撃から防衛するための基地
大別するとこの二つがあるように思います。
局地戦闘機とは、基地周辺の空域を防衛する目的で開発された戦闘機のことです。敵機が攻めてきた時に迎撃のため出ていくのは爆撃機ではなく局地戦闘機ですね。爆弾等がどれだけ積めるかより、敵に勝る運動性能が必要とされていたので、小型で軽量の機体が特徴でした。
旧日章飛行場は、ここから標的に向かって攻勢をかけるというよりは、南方からやってくる敵機を迎え撃つ②寄りの性格が重要視されていたように感じます。特に大戦末期の日本は守勢一方だったので、高知は本土防衛の最前線という重要任務が与えられていました。中小型の掩体が多く見られるのはそのためです。
とはいえそればかりではいけないということで、いくつか大型の掩体も造られたのでしょうね。その数少ないであろう大型掩体の1基が4号掩体です。
<4号掩体の主な特徴>
・他6基と比べると倍の大きさ
・後部の形状が他とは異なる
前浜7号掩体

現存7つの掩体のうち、最も空港に近い東に位置しているのが7号掩体です。
7号掩体の特徴は、内部に道路と水路が通っている点です。

7号掩体内部を見ると、他の掩体と比べて劣化が進んでいる印象です。
道路に活用されている7号掩体ですが、前面の写真を見ても分かる通り劣化が著しく各所が補強されています。

7号掩体の最大の特徴が、天井に筵(むしろ)痕が見られる点です。
掩体を造る際に土を盛ってそこに敷物を置いた上でコンクリートを流し込むのですが、ここではそれが筵だったようです。掩体公園になっている1号掩体の内部はきれいな木目がついているように、まだ資材があってそれなりに精巧に作られている感がありますが、7号掩体の天井は波打っています。
考えられるのは、造られたのが大戦後期で木板を用意する時間さえ無かったか。もしくは、大戦前期で掩体を造るノウハウに乏しく、筵で良しとしたか(その後、これでは…となり木板を使用するようになった)。
いずれにしろ掩体の精度がよくありませんし、補強が施されているように倒壊の危険性もあるように思います。車道化したことが幸いとして、他の掩体と違って近寄って見学することができるのが7号掩体ですが、いつまで近寄ることができるかは限りなく不透明です。もし見学される場合は、できるだけ早い時期に訪れるほうが良いと思います。
なお車道こそ貫通していますが、高さや道幅が自動車の走行には適していないので、自動車で通行するのはやめておいたほうが賢明です。
<7号掩体の主な特徴>
・内部に車道が貫通していて近寄って見学することができる
・天井に筵痕を見ることができる
・劣化が著しい
高知龍馬空港と掩体の対比

7号掩体の向こうに見えるのが高知龍馬空港の管制塔で、四国の中でも遠く離れた感がある高知県にとって、全国各地から直接高知県に来ることができる高知龍馬空港は、非常に重要な存在です。
高知空港の起源は、ここで暮らしていた旧三島村の人々約1,500人が「戦争に勝つために」を名目に、住み慣れた故郷を強制退去させられた上でのものでした。また、その戦争に勝つために、多大な労力を費やして造られた掩体は終戦に伴い無用の長物となりましたが、撤去の困難さから現在も佇み続けています。
高知県へ来県される際にこの場所を訪れることがなかったとしても、高知龍馬空港に離発着する際はよろしければ海側をご覧ください。滑走路の南側を注視していると、これら7基の掩体群が目に入ると思います。
先人らが命がけで日本を守ってくれたおかげで、今の平和があります。戦後80年の時が流れた今、掩体を眺めていて平和の尊さを再確認することができました。
【「前浜掩体群」 地図】