江戸時代以降、遍路石を寄進するなど巡拝の普及に努めた方はたくさんいらっしゃいますが、各地の寺社で「伊藤萬蔵」の名前はよく見ることができます。
名古屋市塩町「伊藤萬蔵」という人物
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう)
1833年(天保4年)、尾張國稲木庄平島村、現在の愛知県一宮市生まれ。
12歳の時に丁稚で出た名古屋で米取引を学び、商才を発揮。 明治の初めに設立された 「名古屋米商会所」 の発起人・株主となり、当時の名古屋周辺における米の仲買人の代表格となった。
その後、禄を打ち切られた武士が手放した土地等を買い上げて借家を建てるなど不動産業も展開。 食・住環境が良くない時代において、民衆の生活向上に寄与した功績は計り知れない。
名古屋市塩町は現在の名古屋市西区。
名古屋駅と名古屋城の中間、名古屋城の側を流れる堀川に沿った辺り。
弘化→嘉永→安政→万延→文久→元治→慶応→明治→大正→昭和
日本の近代化と共に生きた萬蔵さんは、この地で95歳の生涯を閉じた。
近年、区画整理が行われて、塩町の地名や萬蔵さんの旧家は存在しないが、その近くに 「伊藤家住宅」 という米取引で財を成した名家跡が現存しているので、おそらく一族のものと思われる。
お城は第二次世界大戦末期の爆撃を受けて焼失しているので、そのすぐ近くに戦前の建造物が現存しているのは大変貴重である。
【「伊藤家住宅」 地図】
事業で成功して巨額の富を得たにも関わらず、萬蔵さんは 「神仏や世間様の御蔭」 を口癖に、全国の有名社寺へ石造物の寄進を積極的に行った。
その数は自身の名に因んで万基とも言われるが、そこはおそらく数を大きく表す例えだろう。
「北海道と沖縄を除く全国にある」
とさえ言われる萬蔵さんの石造物。
西国三十三所・四国八十八ヶ所を中心に、全国有名社寺へ行くと必ずと言って良いほど "名古屋市塩町 伊藤萬蔵" の名前を目にすることができる。
残念ながら寄進先の控えなどが存在せず、その実数はよくわかっていない。実際には1000基あまりとされる。寄進を行うことは1基でも10基でも簡単な事ではない。大変な功績です。
22番平等寺で見ることができる遍路石
四国の遍路石を建立した代表格と言える中務 茂兵衛(なかつかさ もへい)さんと萬蔵さんによる遍路石。
願主(呼びかけた人)… 茂兵衛さん
施主(お金を出した人)… 萬蔵さん
<両氏とも近代の巡礼界において不世出の功績を残された篤志家。活躍されていた時代がほぼ同じですが、この遍路石を見るに二人が出会ったことはあったのでしょうか。
夢の会談があったのか…
二人が出会った時にはどんな話が交わされたのか…
そのようなことがあったかどうか知る由はありませんが、この石からはそんなロマンが感じられます。
茂兵衛さんの名は四国内で、萬蔵さんの名は西国・四国を中心に全国の有名社寺で見ることができます。神社やお寺に行かれた時は石造物などに目をやって、その名を探してみてください。