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「四国遍路」の由来

「四国遍路」の起源は諸説ありますが、きっても切り離せないのが「弘法大師 空海」です。

平安時代に四国は都から遠く離れた僻地であり、修験者の修行の地とされていました。
平安時代初期に讃岐の國(現在の香川県)に生まれた佐伯 真魚(のちの「空海」「弘法大師」)もその一人で、京の大学での勉学後、20歳前後の時期より山林での厳しい修行に入ったと言われています。
この修行中、土佐の國(現在の高知県)室戸岬の御厨人窟(みくろど)という洞窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて、このとき悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、「空海」と名乗ったと伝わっています。

その後、遣唐使の留学僧として唐に渡り、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義を伝授されました。
帰国後、密教を基盤とした真言宗を開宗します。

空海の入滅・入定後、修行僧が空海ゆかりの地を旅するようになり、修験道の修行地なども加えた修行・巡礼の旅が「四国遍路」の起源とされています。

 

衛門三郎の伝説

「四国遍路」の元祖として伝説も残っています。

天長年間に伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとするものもあり)、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わりたいと託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月のことという。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。

「Wikipedia」より

四国遍路ルートには、「杖杉庵」や51番札所「石手寺」など衛門三郎ゆかりの史跡もあり、衛門三郎が逆回りで弘法大師と出会ったことから逆に回る「逆打ち」はご利益が増すとも言われています。

 

「四国遍路」の大衆化

元来は僧侶の修行としての旅でしたが、江戸時代初期に僧侶だけではなく民衆が祖霊供養や宗教心を深めるために旅を始めます。
このころに、真念という僧によって「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」というガイドブックが書かれていたり、現在も目にする石造の道標が制作・設置されたりと、現代の「四国遍路」の基礎が築かれていきました。
ただし、この時代には病回復、懺悔など悩みを抱えた巡礼者が多く、道程も険しいため、途中で行き倒れて遍路道に葬られる巡礼者もおり、現代の巡礼者も多くが着用する白衣(びゃくえ)は死装束だったという説もあり、過酷な旅であったことが想像されます。

 

近代の「四国遍路」

近代では交通事情の良化にも伴い、マイカーや公共交通機関、旅行会社主催の旅行ツアーなどを利用して巡礼する、史跡を巡る「観光」としての側面もあらわれています。
また、信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者も増加傾向にあると言われており、一時期減少していた徒歩で遍路する「歩き遍路」もこのような動機で増えているとされています。
巡礼者数の正確な統計はありませんが、年間10~30万人(うち歩き遍路が2500~5000人)とも言われています。
一部には外国人も含まれ、世界遺産登録を目指す動きも見られることから、今後国際的にも認知されることが期待されています。

 

四国霊場開創1200年

2014年は四国霊場が開いてから1200年の記念の年とされており、四国各地で記念イベントや、札所での催し・特別御開帳・記念納経など例年とは違った取り組みにより、四国遍路が盛り上がりを見せていました。
メディアでも取り上げられることが増え、今まで四国遍路に触れる機会がなかった方々にも注目されました。

 

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