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    四国遍路とは

    弘法大師空海が平安時代(815年)に開創したと伝えられる四国遍路。全長1400km、弘法大師空海の足跡をたどる巡礼の道として知られていますが、現在のような「四国八十八ヶ所霊場めぐり」のスタイルができたのは江戸時代の頃。それまでは、僧侶たちが巡る純然たる修行の道でした。四国遍路がたどった歴史とこれからの姿についてご紹介します。

    修行の道としての「四国辺路」

    四国辺路

    四国遍路の「遍路」は、もともとは「辺路・辺地(へじ)」という「海べりの道」を示す言葉で、海沿いを歩く修行の道を意味していました。
    仏教伝来以前の昔より、四国には山岳信仰(修験道)が存在し、すでに山伏などによる修行が行われていましたが、平安時代以降、若き空海が修行した土地として注目されるようになると、弘法大師信仰の広まりとともに僧侶たちの間で四国での修行がひとつのステータスとなっていきます。
    平安時代末期の『梁塵秘抄』に収められた詩歌や『今昔物語集』にも僧侶が四国の海辺を巡回する姿が記されており、四国の海岸部を修行のために廻り歩く「四国辺路」のスタイルが、すでにこの頃にはできあがっていたとみられます。
    また、四国での修行は弘法大師が開祖の「真言宗」の僧侶にとどまらず、東大寺を再建した重源、踊り念仏で知られる一遍上人ら他宗派の僧侶も行っており、宗派をまたいだ行場としての「四国辺路」が確立されていきました。

    四国遍路の世俗化と八十八ヶ所霊場の成立

    弘法大師信仰が民衆の間に広がっていった中世末から近世初頭にかけて、 今度は僧侶による「四国辺路」から民衆が行う「四国遍路」への世俗化がはじまります。
    室町時代にも僧侶以外の旅人が四国の霊場を訪ねていた記録が残っていますが、本格的に一般庶民による四国霊場巡りが始まったのは江戸時代のこと。四国霊場の巡り方や体験記などが綴られた案内記(道中記)が出版されるようになり、修行ではなく巡礼としての四国遍路のスタイルが形成されていきました。

    出版された書の中でも特に有名なのは1687年(貞享4年)に出版された『四国遍路道指南』で、これは旅の持ち物や参拝作法、宿情報まで示された、いわば四国遍路のガイドブック。現在の八十八ヶ所の札所番号と巡拝ルートも、この書によって確定されたといわれています。

    四国遍路の世俗化

    さらに、この『四国遍路道指南』を記した宥辨真念(ゆうべんしんねん)は、ガイドブックの作成のみならず、旅人の泊まる庵(真念庵)や道を示す石碑(標石)などを整備して四国遍路の普及につとめた人物。その功績から「四国遍路の父」と呼ばれるなど、誰もが弘法大師の足跡を辿ってその霊威に与かれるよう、巡礼のすそのを広げる活動が民間の中から生まれてきたのもこの時代でした。
    こうして、江戸時代には「四国遍路」が庶民のものとして一般化され、弘法大師空海ゆかりの地を自由に巡りながら修行する形態から、定められたルートをたどって札所を巡拝する形へと変貌していったのです。

    大規模観光化した四国遍路

    江戸時代に庶民のものとなった四国遍路は、近代に入りモータリゼーションの発達を経て、より大衆化されることとなります。特に、1988年に開通した瀬戸大橋の影響は大きく、四国外から大型バスで団体客が訪れるなど、四国遍路の大規模観光化が進みました。
    また、交通手段が発達したことで、車を使った「歩かないお遍路さん」が多勢を占めるようになりますが、その一方で、自身の救済や供養を目的として歩みを進める「歩き遍路」の姿も依然として残るなど、四国遍路の意義とスタイルの多様化が進んでいったのもこの頃です。

    国際化・多様化する四国遍路の姿

    国際化・多様化する四国遍路

    四国八十八ヶ所霊場は、始まりと終わりが円状に結ばれる循環型の巡礼路。世界的にも珍しい巡礼の形態で日本古来の巡礼文化を残す道でもあることから、海外からの関心は高く、近年では外国人の歩き遍路の姿を多く目にするようになりました。
    また、国内外問わず旅行ニーズの多様化も進み、巡礼だけではなく、文化・歴史観光としての側面やバイクや自転車を使った遍路旅など、様々な目的、様々なスタイルの四国遍路が増えています。
    修行から巡礼、観光へと形を変えてきた四国遍路。ベースとなる「巡礼路」の姿はそのままに、時には宗教的な祈りをささげる旅として、時には四国の文化・自然を体感する旅として、それぞれのスタイルで遍路旅に出発する時代がきています。