【17番札所井戸寺→18番札所恩山寺】施主の職業が記されている中務茂兵衛標石

小松島市へ入り18番札所恩山寺手前まで進んだところ。この区間の多くは国道55号バイパス沿いを歩きますが、小松島警察署付近から少し脇道へ入ると、施主の職業が記されているこちらの中務茂兵衛標石がある地点に来ることができます。

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17番→18番 標石

高地蔵らと共に一角にまとめられている

 

中務茂兵衛 < 弘化2年(1845)4月30日 - 大正11年(1922)2月14日 >

周防國大嶋郡椋野村(現 山口県周防大島町)出身。 18歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて 一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事 279回。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は 歩き遍路最多記録 と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容は

17番→18番 標石 正面

やや大きめの標石

正面上部
(指差し)
井戸寺
恩山寺
(弘法大師像)

大きさは一般的な中務茂兵衛標石より一回り大きく、指差しや大師像の部分に浮彫が施される等、高度な技術が多用されています。

17番→18番 標石 正面下部

廣嶋の材木商によるもの

正面下部
施主
廣嶋市下柳町
材木商●●

「広島市下・柳町」か「広島市・下柳町」なのか。はたまた「柳」ではないのか。
判別が難しいところですが、同じく刻まれている「材木商」の情報を手掛かりに考えると、かつて市中心部に「材木町」、そして「元柳町」がありました。前者は町名の通り、太田川上流で切り出された木材を、筏や荷船によって運び集積していた地域。このエリアで材木商を行っていた人物が寄進した…と考えてみてはいかがでしょう。

これらの地名は昭和40年(1965)に実施された町名改正によって統合され、現在「中区中島町(なかくなかじまちょう)」になっています。平和記念公園は同じ中島町、つまり広島原爆の爆心地です。

 

標石の右面に表記されている内容は

17番→18番 標石 右面

三角寺奥の院(仙龍寺)の情報


小枩嶋
伊豫國三角寺奥の院
厄除●大師●●
●開帳あり四国巡拝
●●

小枩嶋…小松島=現小松島市

番外霊場・仙龍寺(別格13番)への参籠の勧めが記されています。
この情報は、他のいくつかの標石で見ることができますが、宣伝のようなものなのでしょうか。はたまた施主さんが奥の院の信者さんなのでしょうか。

 

標石の左面に表記されている内容は

17番→18番 標石 左面

遍路キャリア後期の215度目

弐百十五度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教

215度目の四国遍路は、中務茂兵衛63歳の時。遍路キャリア後半に差し掛かっている時代です。

ここから左へ100mほど行くと、弘法大師ゆかりの水が湧いています。

 

標石の裏面に表記されている内容は

17番→18番 標石 裏面

四面とも刻字あり

明治四十年一月
世話人●●

西暦1907年。翌2月に麒麟麦酒が設立されています。

 

18番札所恩山寺へは、この場所から徒歩30分くらい。源平合戦の際に源義経が上陸したと伝わる場所が、ここから恩山寺へ向かう途中にあります。
※源義経上陸地近くにも中務茂兵衛標石が残されており、以下リンクの記事でご紹介しています。

【18番札所恩山寺→19番札所立江寺】18番・19番の中間で見られる宮崎県由来の標石

 

【「小松島警察署近くの中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。