68番札所神恵院と69番札所観音寺は同じ境内の中に二つの札所が位置するという珍しい構造で、現在の寺域は琴弾山の東側中腹を占めています。レイライン的な観点から札所の構造を分析します。
レイライン的な観点から見た札所の構造
四国八十八ヶ所の札所は、由来書はもとより、様々なガイドブックや寄稿文などで、その歴史が紹介されています。そんなこともあって、すでに語り尽くされているような印象がありますが、個々の札所をその構造から分析するレイラインハンティングの観点で見直してみると、今まで語られてこなかった札所の歴史や、個々の札所に込められた古の人の思いが明らかになってきます。
今回は、香川県西部の観音寺市エリアの札所をレイラインハンティングの手法で分析したレポートをご紹介します。
日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例
香川県西部の観音寺市には、66番から69番の札所があり、四国山地の一角標高911mから溜池が散在する長閑な山村風景、そして瀬戸内海が眼前に広がる伸びやかな海岸沿いまで、コンパクトな地域ながら、変化に富んだ自然景観が展開し、終盤に差し掛かった遍路道中の一つの山場ともいえます。
中でも、四国八十八ヶ所の札所の中でもっとも高い位置にある66番札所雲辺寺は、霊峰石鎚山から瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景が、長い遍路の道のりの疲れを一気に吹き飛ばしてくれます。
歴史的に見ると、この地域の札所は神仏習合の名残を留めていたり、真言と天台両密が一カ所に合わせられていたり、さらに札所と密接な関係を持つ霊場も多く、四国八十八ヶ所の変遷はもとより、日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例です。
68番札所神恵院(じんねいん)・69番札所観音寺(かんおんじ)
<由緒>
四国八十八ヶ所68番札所神恵院 本尊:阿弥陀如来 真言宗大覚寺派
四国八十八ヶ所69番札所観音寺 本尊:聖観音菩薩 真言宗大覚寺派
大宝三年(703)、琴弾山で修行していた日証上人が、八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけ、里人とともに船を山頂に運んで祀ったのが始まりとされる。そのとき船の中から琴の音がしていたので「琴弾八幡宮」としたという。ここには、養老六年(722)に行基が訪れたという記録もある。この琴弾八幡宮の神宮寺として創建されたのが神恵院。大同二年(807)、四国行脚中の空海が琴弾神社に参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾神恵院(ことひきじんねいん)として68番札所に定めたとされる。
明治の神仏分離で琴弾神社と神恵院は分離され、本尊・阿弥陀如来像は観音寺境内の西金堂に移された。観音寺は琴弾八幡宮に隣接した神恵院とは別に、琴弾山の中腹に設けられた神宮寺だった。空海は、琴弾山の中腹に奈良興福寺にならい中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をした。これに因み寺名を「七宝山観音寺」に改め、霊場に定めた。
<浄土信仰を表す方位と色濃い神仏習合>
神恵院と観音寺は同じ境内の中に二つの札所が位置するという珍しい構造となっています。現在の寺域は琴弾山の東側中腹を占めています。観音寺の本堂は向きとしてはノーマルに南を向いていますが、神恵院と大師堂は東向きになっています。観音寺の本尊である聖観音はとくに方位と関連づけられていませんが、神恵院の本尊である阿弥陀如来は西方浄土の主であり、東を向くということは、参拝者が春分と秋分の彼岸に本堂に向き合ったとき、その背後に日が沈む構図となります。これは、彼岸に西方浄土におわす阿弥陀如来と繋がることを意味しています。
実は、神恵院、観音寺、そして琴弾神社は、江戸時代以前の神仏習合の時代は一体のものでした。それは、琴弾八幡神社とその神宮寺という位置づけで、明治の神仏分離で神社と寺が分けられ、さらに神宮寺が神恵院と観音寺に分けられたのです。
お遍路さんがの遍路道中で八十八ヶ所札所とともによくお参りする神社が二つあります。一つは金刀比羅宮(香川県琴平町)で、もう一つはこの琴弾八幡神社です。それは、両社がかつては神仏習合の神社であり、札所に数えられていたためです。
琴弾八幡宮と銭形砂絵
<銭形砂絵の由来>
琴弾山を挟んで反対の西の砂浜には、近年ラッキースポットとして注目される「銭形砂絵」があります。その由来は諸説ありますが、江戸時代後期には、すでに砂絵が作られていたようです。
砂絵がある砂浜は、琴弾八幡神社の祭神である八幡大菩薩の乗った船が漂着した場所と伝えられています。
大宝3年(703年)に琴弾山で日証上人が修行していると、彼方の空が鳴動し、突然、海上に船が現れます。その船からは妙なる琴の音が響き、そのまま岸に着きました。船には琴を携えた一人の翁が乗っていました。
船の元に集まった日証上人と村人たちに向かって、その翁は「宇佐より至る八幡大菩薩なり、この地の風光去りがたし」と告げ、船を残してどこともなく消えてしまいました。上人と村人は、残された船を琴と一緒に山頂に運びあげてこれを祀り、それが琴弾八幡宮になったと伝えられています。
船で到来する神といえば、七福神を想像しますが、時が経つうちに、八幡神の逸話が七福神あるいは単一の福の神(恵比寿神)などに連想されて、福の神の上陸地ということで、この砂絵が描かれたのかもしれません。
琴弾八幡の信仰も、その後この地を行基や空海が注目したのも、太古からの聖地であったことが由来していると想像できます。
琴弾山展望台からすぐの場所に琴弾八幡宮の本殿があるので、「ご利益」のイメージがより強く結びついているのかもしれません。
ここまで、68番札所神恵院と69番札所観音寺のレイライン的観点での分析レポートをご紹介しました。
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【香川県観音寺市エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-66番札所雲辺寺
【香川県観音寺市エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-67番札所大興寺
【「68番札所神恵院・69番札所観音寺」 地図】