【85番札所八栗寺〜庵治半島】八栗寺のレイラインと庵治半島の聖地

香川県高松市周辺のほとんどの場所から拝め、その特徴的な山容が印象に残る五剣山。この五剣山は85番札所八栗寺をその中腹に擁し、さらに様々な聖地がランドマークとしています。

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冬至の日入りを正面にする八栗寺

四国八十八ヶ所霊場の85番札所八栗寺は、巨大な岩盤をむき出しにした五剣山を背にし、開けた高松市内を望んでいます。
真言宗大覚寺派に属し、本尊は聖観音。
弘法大師・空海が修行時代にここで虚空蔵求聞持法の修法を行っていたところ、天から五本の剣が降ってきて刺さり、同時に蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げたと寺伝にあります。
さらに、空海は剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したとされます。

寺名は、空海が唐にいるときに栗子を八つ海に投入して、その漂着した所に仏法が栄えるとして、その漂着地であったこの地に寺を建立したことに由来するという説と、寺の奥之院である五剣山頂上から八つの国を望むことができ、はじめ「八国寺」とされていたものがいつしか「八栗寺」になったという説があります。

高野山の縁起には、空海が唐から帰国する際に、明州(現在の寧波)から「わたしが漏らすことなく受け継いだ密教を広めるのにふさわしい地へ行くように…」と願をかけて密教法具の三鈷杵を投げ、それが現在の高野山金剛峰寺の御影堂の前にある松の木に引っかかっていたことから、真言密教の根本道場とすることが定められたとあります。
これは、八栗寺の由来の前者の説と大同小異です。

実際には、五剣山が修験道場として空海の生誕以前から栄えていて、その当時には八国寺と呼ばれていたものが、空海伝説で脚色されて八栗寺とされたという可能性が高いでしょう。

大仙山からのぞむ五剣山

庵治半島先端付近の大仙山からのぞむ五剣山。その特徴的な山容はどこから見てもよくわかる。

八栗寺の本堂から、その前方に一直線に伸びる参道は冬至の日入の方向を正確に指しています。
これは善通寺と屋島を結ぶ讃岐レイラインの基準線の方角と一致しています。

海上から望む五剣山

庵治半島の西側に位置する屋島の北端「長崎の鼻」を海上から望む。讃岐レイラインの基準線は、写真の屋島北嶺を通る。

※讃岐レイラインの基準線に関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。

【讃岐レイライン】善通寺と屋島を結ぶ線は讃岐レイラインの大動脈

本堂の背後の方向は夏至の日出に当たるわけですが、五剣山の岩峰が迫っているので、夏至の日出はだいぶ南偏します。
今は崩落の危険があって五剣山には登れませんが、その頂上には祠がありますから、本来はその祠の前で夏至の朝日と冬至の夕日を拝していたのでしょう。

本堂向って左の石段を上がると、寺の奥の院である中将坊堂があります。
ここには天狗が履くとされる一本歯の下駄がたくさん奉納されています。
中将坊は讃岐三大天狗(白峰山の相模坊,象頭山の金剛坊、五剣山の中将坊)の一つとされています。

天狗は修験者を指しますから、天狗を奥の院に祀っていることからも八栗寺が五剣山を修行場とする修験の拠点であったことがわかります。
また、讃岐三大天狗に数えられるということは、五剣山の修行が過酷であり、そこで修行を積んだ修験者が高い法力を持つ者として畏れられたことも物語っています。

垂直の岩峰が屹立する五剣山では、修行中に転落死する修行者も多かったようで、そうした者は、修行にあたっての心構えが足りず、あるいは修行に身が入らなかったために中将坊の怒りに触れたためと考えられました。
若き空海もここで厳しい肉体的な修行を積み、さらに虚空蔵求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱える修法)を修めたと伝説は伝えていますが、同じ虚空蔵求聞持法を成就した室戸の御厨洞では、空海の口に金星が飛び込んだとされ、この八栗寺では五本の剣が天から降ってきたとされます。
天から剣がふる光景を想像すると、朝日や夕日が一閃して剣のように見えたのかもしれません。
冬至の夕日が落ちる方向に開いた五剣山の岩窟の奥深くで空海が修法を行っていたとすれば、冬至の夕日が真っ直ぐに射し込み、修行によって陶然としていた空海の目に、一閃する光の剣に見えたのかもしれません。

八栗寺のレイライン

八栗寺は冬至入日と夏至日出のレイラインにそって配置されている。

八栗寺本堂から参道方向(冬至の日の入)

本堂から参道方向を向くと、冬至の日の入の光が差し込んでくる配置。

八栗寺本堂と夏至の日出

本堂の背後は夏至の日出方向になるが、五剣山の岩峰が迫っているので、実際の日出はかなり南偏する。かつては五剣山の頂上にあった祠で、夏至の日出と冬至の日入りを拝したのだろう。

 

庵治半島の聖地と花崗岩

屋島と狭い湾を挟んで向き合うように北に突き出した庵治半島、その真中に位置しているのが五剣山です。
五剣山から半島全体が「庵治石」として知られる硬い花崗岩からなり、麓の庵治の街は庵治石を切り出して、墓石や石碑に加工する石の街として栄えてきました。

日本三大花崗岩にも数えられる庵治石は、正式名は「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で、石英と長石に黒雲母が含まれ、磨き出すと決めの細かい肌に「フ(斑)」と呼ばれる黒雲母特有の模様が現れて、独特の表情を見せます。
これが珍重され、庵治石は高級石材の代表格とされています。

地図を見ると、五剣山を中心に庵治半島内には他と比べて多くの寺社が目立ちます。
それはどうしてでしょうか。

一般に、花崗岩質の場所には聖地が多い傾向が見られます。
一説には、それは花崗岩に含まれる石英(水晶)の特別な性質によるものだといわれます。

水晶は外側から刺激を受けたときに「圧電効果」という現象を生じます。
例えば水晶を含む花崗岩に大きな力が加わって水晶が弾けると、そこから電磁波が発生します。
地震の前兆とされる地震雲は、そうした水晶の圧電効果によって生じた電磁波が地上から空中に伝わり、空気中の水分を凝集させるために生まれるともいわれ、また動物などの異常行動もその影響ではないかといった説があります。
また弱い電圧が水晶に加わると、特定の振動を生み出すのも圧電効果で、これはクォーツ時計の水晶発振子として利用されています。

昔、グループでロッククライミングをしているときに、大きな花崗岩のテラスの上でゴロゴロしていたらとても気持ちよくなって全員が眠ってしまったことがありました。
今考えると、それは日光によって温められた岩の心地よさと同時に、水晶発振のようなことが起こり、岩を伝わる水晶の規則正しい振動も手伝っていたのかもしれません。

それはともかく、昔から、花崗岩の大きな岩盤のある場所には寺社が築かれることが多かったのは事実です。
庵治半島全体が、巨大な花崗岩盤ですから、ここに寺社が集中しているのも頷けます。

 

修験岩窟の竹居観音と磐座群の大仙山

庵治半島の突端近く、東の海岸には八栗寺の奥の院とされる竹居観音寺があります。
記録には「天正16年(1588)に生駒藩高松城の鬼門守護の祈願寺として建立された」とあります。
正式な寺とされたのは記録にあるように高松城の築城にともなってですが、寺の少し先の岬には岩窟があって、ここは古代から修験道場として開かれていました。
八栗寺の奥の院とされたのは、庵治半島自体がとても広い修験の道場であり、五剣山やその周辺の山岳での修行と合わせて、この岩窟でも参籠修行が行われていた名残りでしょう。

竹居観音から見た海

岬の先端の竹居観音。今は橋と遊歩道で渡れるが、かつては修験者が命がけで岸壁をトラバースしてたどり着いたのだろう。

海上から竹居観音をみる

船に乗って海上から竹居観音をみると、岬の断崖絶壁が浸食された岩窟であることがよくわかる。

岩窟の中は暗く孤立し、切り立った岸壁に波が砕ける音が反響して凄絶な環境の中、修験者たちは魔物に取り巻かれているように感じ、それを読経と観想の力で破却する精神力を鍛えていたのでしょう。
そうした「魔」を退散させる場という記憶が、鬼門守護という発想を生み出したものと考えられます。

竹居観音 堂宇

現在は岩窟内に堂宇が建立されている。

その竹居観音の岩窟の背後には「大仙山」という露岩が累々とした山があります。
五剣山には天狗がいて、この山には道教の「仙人」を連想させる名前がつけられているところにも、庵治半島の「聖地性」の高さが意識されていたことが伺えます。

大仙山の頂上には、高さ2mあまりの円錐状の立石があり、それを取り巻くように磐座群があります。
さらにまだ新しい観音像と崩れかけた大師堂があります。
ここからの展望は素晴らしく、南に五剣山、南西には庵治の市街を一望し、その先には屋島が見えます。さらに北西方向は、大島から女木島、男木島、豊島、直島まで一望できます。
この雄大な風景を見ていると、自分が仙人になって、空を飛翔しながら景色を見下ろしているような気分になります。
案外、そうしたロケーションが、この山の由来なのかもしれません。

大仙山から南方向のパノラマ

大仙山から南方向のパノラマ。左手に見える山が五剣山。正面の台地が屋島。

大仙山頂上の円錐形の立石

大仙山頂上には円錐形の立石と磐座群がある。

大仙山と夏至の日入ライン

大仙山から見ると、夏至の日入方向に、大島、男木島、直島と連なる。

 

 

このように85番札所八栗寺がある庵治半島は、特徴的な山容と眺望の五剣山をはじめとして、聖地としての要素をそなえ、古代から信仰の地であったことがうかがえます。
庵治半島を基点として香川県や瀬戸内海をみてみると、讃岐の成り立ちや歴史を深く探求できるかもしれません。

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この記事を書いた人

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。