四国八十八ヶ所霊場の札所の中でもっとも高い位置にある66番札所雲辺寺は、霊峰石鎚山から瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景が、長い遍路の道のりの疲れを一気に吹き飛ばしてくれます。レイライン的な観点から札所の構造を分析します。
レイライン的な観点から見た札所の構造
四国八十八ヶ所の札所は、由来書はもとより、様々なガイドブックや寄稿文などで、その歴史が紹介されています。そんなこともあって、すでに語り尽くされているような印象がありますが、個々の札所をその構造から分析するレイラインハンティングの観点で見直してみると、今まで語られてこなかった札所の歴史や、個々の札所に込められた古の人の思いが明らかになってきます。
今回は、香川県西部の観音寺市エリアの札所をレイラインハンティングの手法で分析したレポートをご紹介します。
日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例
香川県西部の観音寺市には、66番から69番の札所があり、四国山地の一角標高911mから溜池が散在する長閑な山村風景、そして瀬戸内海が眼前に広がる伸びやかな海岸沿いまで、コンパクトな地域ながら、変化に富んだ自然景観が展開し、終盤に差し掛かった遍路道中の一つの山場ともいえます。
中でも、四国八十八ヶ所の札所の中でもっとも高い位置にある66番札所雲辺寺は、霊峰石鎚山から瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景が、長い遍路の道のりの疲れを一気に吹き飛ばしてくれます。
歴史的に見ると、この地域の札所は神仏習合の名残を留めていたり、真言と天台両密が一カ所に合わせられていたり、さらに札所と密接な関係を持つ霊場も多く、四国八十八ヶ所の変遷はもとより、日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例です。
66番札所雲辺寺(うんぺんじ)
<由緒>
四国八十八ヶ所66番札所雲辺寺
真言宗御室派 巨鼇山(きょごうさん)千手院
本尊 :千手観音菩薩ほか、毘沙門天
延暦八年(789)に空海が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山として感得し、堂宇を建立したのが起源とされる。空海はまた大同二年(807)に秘密灌頂の修法を行い、弘仁九年(818)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻み、七仏供養を行ったという。霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。
<二至ラインを指す本堂>
標高911mの雲辺寺山山頂にある雲辺寺は、四国八十八ヶ所札所中もっとも高い場所に位置しています。頂上からは重畳と続く四国山地から瀬戸内海まで一望のパノラマで、西日本最高峰の石鎚山も拝むことができます。四国遍路は、深山や海岸の断崖などで修行していた修験者たちの修行場を繋ぐルートに由来しますが、とりわけ地形が厳しい四国という土地の環境が修験道に適していたことが、ここから眺める風景からよくわかります。
雲辺寺の構造を分析すると、本堂が冬至の日出方向を正確に指していて、夏至と冬至を結ぶ「二至ライン」を意識していることがわかります。これは空海の出身地である75番札所善通寺にも見られる構造で、空海創建の由緒を裏付けると同時に、生命再生と繁栄を祈念する密教的意図も伺えます。
あるいは、太古の太陽信仰の祭祀場がここにあり、それを修験道が受け継いだのかもしれません。雲辺寺が二至を意識しているということは、雲辺寺のある雲辺寺山を仰ぎ見る西側の平野に点在する寺社の中に、雲辺寺山から昇る夏至や冬至の朝日を意識した立地になっているところも多数あるのではないかと推測できます。もしかすると、その二至ラインに沿って、寺社が連なっているかもしれません。
雲辺寺の創建は大同二年(807)に、空海がここで秘密灌頂を行ったことに由来すると伝えられていますが、この大同二年という年は、空海が遣唐使から戻った翌年ともされ、じつは、その足取りはよくわかっていません。他にも大同二年に空海が創建したという由来を持つ寺社が四国には多く見られますが、それらをさらに掘り下げていくと、謎とされるこの期間の空海の足取りやその活動が見えてくるかもしれません。
こうした「二至」を意識した構造は、そこが古代以前から聖地とされていた可能性を示しています。さらに、空海が若いときに登ったという言い伝えがあり、古くから山岳修験の道場として開かれていたと考えられます。
ここまで、66番札所雲辺寺のレイライン的観点での分析レポートをご紹介しました。
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【香川県観音寺市エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-67番札所大興寺
【香川県観音寺市エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-66番札所神恵院・67番札所観音寺
【「66番札所雲辺寺」 地図】