67番札所大興寺の境内は小高い丘の上にあり、かつてはその丘の全域が寺域だったことを想像させる堂宇の配置が見られ、すべての堂宇が東を向いています。レイライン的な観点から札所の構造を分析します。
レイライン的な観点から見た札所の構造
四国八十八ヶ所の札所は、由来書はもとより、様々なガイドブックや寄稿文などで、その歴史が紹介されています。そんなこともあって、すでに語り尽くされているような印象がありますが、個々の札所をその構造から分析するレイラインハンティングの観点で見直してみると、今まで語られてこなかった札所の歴史や、個々の札所に込められた古の人の思いが明らかになってきます。
今回は、香川県西部の観音寺市エリアの札所をレイラインハンティングの手法で分析したレポートをご紹介します。
日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例
香川県西部の観音寺市には、66番から69番の札所があり、四国山地の一角標高911mから溜池が散在する長閑な山村風景、そして瀬戸内海が眼前に広がる伸びやかな海岸沿いまで、コンパクトな地域ながら、変化に富んだ自然景観が展開し、終盤に差し掛かった遍路道中の一つの山場ともいえます。
中でも、四国八十八ヶ所の札所の中でもっとも高い位置にある66番札所雲辺寺は、霊峰石鎚山から瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景が、長い遍路の道のりの疲れを一気に吹き飛ばしてくれます。
歴史的に見ると、この地域の札所は神仏習合の名残を留めていたり、真言と天台両密が一カ所に合わせられていたり、さらに札所と密接な関係を持つ霊場も多く、四国八十八ヶ所の変遷はもとより、日本の仏教史のエポックを実地に学ぶことができる好例です。
67番札所大興寺(だいこうじ)
<由緒>
四国八十八ヶ所67番札所大興寺
真言宗善通寺派 小松尾山(小松尾寺)
本尊:薬師如来 脇侍:不動明王 毘沙門天
天平14年(742)、熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地の北面1kmあまりのところに建立され、延暦11年(792)に空海が巡錫、弘仁13年(822)に嵯峨天皇の勅により再興されたと伝えられる。ちなみに弘仁13年は最澄の没年。戦国時代に焼失。寛保元年(1741)再建。往時は真言24坊、天台12坊を擁する。本堂左側は弘法大師堂、右側は天台第三祖智顗(ちぎ)を祀る天台大師堂。仁王門の314cmの金剛力士像は運慶作と伝わる。また参道のカヤと楠は、空海の手植えとされる。
<東向きの堂宇と三鈷の松>
大興寺の境内は小高い丘の上にあり、かつてはその丘の全域が寺域だったことを想像させる堂宇の配置が見られます。
堂宇はいずれも東を向いています。これは、本尊の薬師如来が東方浄瑠璃浄土の主であることを象徴するものです。如来や菩薩には、本来、それぞれに対応する方位があり、本尊に合わせて本堂を向けたり、境内配置を行うのが本来の寺院設計でした。
彼岸の中日(春分・秋分)には、堂の正面から太陽が昇り、背後に沈む形となります。これは、この日の太陽が東方浄瑠璃浄土と西方浄土を文字通り結ぶことを意味します。
大興寺境内にはひときわ目を引くカヤとクスノキの巨木があります。カヤは空海が種をまき、クスノキは手植えしたものと伝えられています。
本堂前にある松は「三鈷の松」と呼ばれ、葉を持っているとご利益があるとされ、ブリキの箱に落ち葉が入れられています。お遍路さんの多くは、あまりこの巨木を気にしませんが、パワースポットブームにあやかって訪れている若いカップルなどは、逆に札所としての大興寺よりも、巨木のパワースポットがある大興寺という捉え方をしています。
寺社のお守りは、もっとも古い形態はご神木・ご霊木の木の葉だったとされますが、それは太古の巨木信仰に繋がっています。いかにも生命力が旺盛な巨木の葉を身につけることで、その生命力と活力をいただき、さらに、長年枯れることなく生きてきたその霊力によって、魔を除けるという意味合いもありました。
大興寺の三鈷の松の葉は無造作に箱に入れられていて、由来を知る人だけが持っていけるようになっていますが、大興寺を訪ねた際には、ぜひお守りとして、一ついただいてください。
ここまで、67番札所大興寺のレイライン的観点での分析レポートをご紹介しました。
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【「67番札所大興寺」 地図】