讃岐東部のレイラインは夏至の日の出と冬至の日の入方向の二至を結んでいます。
空海の生誕地である「善通寺」と高松のシンボル「屋島」を結ぶこのレイラインは讃岐の大動脈といえるでしょう。

讃岐の主要聖地を貫くレイライン

二至を結ぶレイラインは、冬至に太陽再生を願い、夏至に太陽の恵みに感謝する意味があり、縄文時代に遡る古い太陽信仰の痕跡と考えられます。
それを証明するように、香川県三豊市では縄文時代にまで遡れる聖地を結んでいました。
※三豊市のレイラインに関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。

冬至・夏至を意識した香川県三豊市の聖地・レイラインとお遍路関連史跡

同様に、讃岐東部のラインも太古から続く聖地を貫いています。
善通寺の御神体山である香色山に始まり、善通寺、国分寺、国分尼寺、袋山、石清尾山、玉藻公園(高松城址)、屋島北嶺、これらを寸分の狂いもなく貫いていくのです。

南西の香色山から北東の屋島北嶺まで、讃岐の最重要ともいえる聖地が連なる。讃岐レイラインの基本ライン

南西の香色山から北東の屋島北嶺まで、讃岐の最重要ともいえる聖地が連なる。讃岐レイラインの基本ライン。

夏至の日の出を指す善通寺と条里

古代から中世にかけて、日本で都市が開発される際には「条里制」が用いられてきました。
これは南北と東西に伸びる道が整然と区画を切る形で設けられるものです。
唐の長安に習った奈良・平城京や京都・平安京が有名ですが、古い都市は基本的に条里制に基づいて整備されています。

現在の善通寺市もその例にもれず、条里制に基づいて道と区画が整備されていますが、特殊なのは基本線となる縦の条里が夏至の日の出と冬至の日の入の二至を指す形になっているのです。

高松に住む人が車を運転して善通寺市にやって来ると、しばしば方向がわからなくなって道に迷うといいます。
それは、高松がほぼ南北東西に仕切られた条里なのに対して、善通寺市の条里は時計方向にほぼ30°傾いているためなのです。

四国八十八ヶ所霊場75番札所「善通寺」は言うまでもなく弘法大師空海の生誕地として有名です。
ですが、空海誕生のはるか以前から、ここは大きな集落が営まれていました。
善通寺の北東には大規模な縄文時代の集落跡があり、さらにに隣接する「練兵場遺跡」は、それを引き継ぐ弥生から古墳時代にかけての遺跡です。
また、白鳳時代の瓦が善通寺のかつての寺域から見つかっており、中村廃寺と呼ばれる前善通寺の存在を予想させます。

こうして善通寺の歴史を振り返ってみると、空海の生誕地であるという以上に、善通寺という土地が古い由緒を持つ聖地であることがわかります。

善通寺市には、大小の古墳が400基あまり確認されています。
3世紀の野田院古墳、3世から6世紀までの祭祀遺跡と古墳の複合が見せれる磨臼山、6世紀の王墓山古墳などが代表的なもので、この地方を大きな豪族が治めていたことを物語っています。
このうち王墓山古墳は善通寺と市街地の条里と同じ二至の方向を指し、太古の太陽信仰が受け継がれていたことがわかります。

奈良で出土した640年頃の木簡には「佐伯部、アシナ、海部」の文字が見られ、7世紀には空海の家系である佐伯氏が定着していたとみられます。

善通寺市の象徴である善通寺そのものが、夏至の日の出の方向を向いて、参道もその方向に真っ直ぐ伸びているのがわかる。尚、かつての正式な参道は香色山に直行する一本南側の参道だったと伝えられる。

善通寺市の象徴である善通寺そのものが、夏至の日の出の方向を向いて、参道もその方向に真っ直ぐ伸びているのがわかる。尚、かつての正式な参道は香色山に直行する一本南側の参道だったと伝えられる。

善通寺は、香色山(左)と筆ノ山(右)との鞍部を背負う形に配置されている。袋山付近から見ると冬至の夕日はこの鞍部に沈んでいく。

善通寺は、香色山(左)と筆ノ山(右)との鞍部を背負う形に配置されている。袋山付近から見ると冬至の夕日はこの鞍部に沈んでいく。

香色山から夏至の日出方向を望む。条里が真っ直ぐこの方向を指しているのがよくわかる。また、府中へ抜ける峠の向こうに円錐形の袋山が望め、さらにその背後に屋島が見える。これがまさに東讃の基本レイライン。

香色山から夏至の日出方向を望む。条里が真っ直ぐこの方向を指しているのがよくわかる。また、府中へ抜ける峠の向こうに円錐形の袋山が望め、さらにその背後に屋島が見える。これがまさに東讃の基本レイライン。

香色山頂上には弥生時代の祭祀跡があり、その側には「佐伯直遠祖坐神(さえきのあたいえんそにますかみ)」の文字が刻まれた石碑がある。

香色山頂上には弥生時代の祭祀跡があり、その側には「佐伯直遠祖坐神(さえきのあたいえんそにますかみ)」の文字が刻まれた石碑がある。

この祭祀遺跡、石碑からも、香色山は空海の家系である佐伯氏がご神体としていたことがわかります。
背後は我拝師山、空海の「捨身ヶ嶽」縁起の山ですが、香色山、筆ノ山、中山、火上山と合わせて「五岳連山」と呼ばれ、古くから山岳修験の修行場とされてきました。
五岳連山は、まさに空海の修験道場といえます。

 

善通寺市内の護国寺。我拝師山を背負う形で、やはりニ至の方向を意識して建てられている。

善通寺市内の護国神社。我拝師山を背負う形で、やはりニ至の方向を意識して建てられている。

 

讃岐国分寺跡

善通寺市街の中心を貫く道を真っ直ぐに進んでいくと、そのまま県道18号線に入ります。
そして、額坂峠を越えるとその北側は讃岐府中になります。
奈良時代に国府が置かれた讃岐府中は、当時の讃岐の中心でした。
今では坂出市の一部となり、山間の静かな里になっていますが、国分寺や国分尼寺、さらに国府跡や崇徳上皇の讃岐在所も残り、往時をしのばせます。

国分寺は、奈良時代の寺域は南北240メートル、東西220メートルあり、現在の四国八十八ヶ所霊場80番札所「国分寺」や東隣にある宝林寺を含んでいます。
伽藍は大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていました。

旧伽藍跡は遺跡公園として整備され、奈良時代の伽藍が縮尺10分の1の石造模型で再現されているほか、築地塀の一部が実物大で復元されています。
また、僧房跡は残存状況が良好であったため遺構を覆屋で覆い、建物の一部が復元されています。

国分寺自体の区割りは正確に東西南北になっていますが、前述のように讃岐の主要聖地を貫くレイライン上に位置しています。
善通寺の方向は山並みに遮られてここからでは見えませんが、ラインの北東(夏至の日の出方向)には国分尼寺のある方向から、さらに袋山を望むことができます。

80番札所「国分寺」は、寺伝によれば行基が千手観世音菩薩を本尊として開基したとされています(ただし現存する本尊像は当時のものではありません)。
『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」との記載があり、この頃には整っていたと考えられ、明徳2年(1391年)の文献には当寺が西大寺の末寺である旨が記されており、その他の文献から鎌倉末期までには西大寺末となっていたと推測されています。
江戸時代には讃岐高松藩主から崇敬され、63石前後の寺領寄進を受けました。

国分寺跡に造られた1/10スケールの模型。かつての伽藍配置などがよくわかる。

国分寺跡に造られた1/10スケールの模型。かつての伽藍配置などがよくわかる。

讃岐国府跡(推定)。讃岐府中の市内には古い遺跡がいくつも残り、散策コースとなっている。

讃岐国府跡(推定)。讃岐府中の市内には古い遺跡がいくつも残り、散策コースとなっている。

国府跡近くから袋山を望む。

国府跡近くから袋山をのぞむ。

 

讃岐国分尼寺跡

讃岐国分尼寺は、五色台の南麓、現在の大慈山法華寺(ほっけじ)がその跡と推定されています。
国分寺跡から讃岐の基本レイラインに沿って北東へ約2kmの長閑な山間に位置しています。

昭和57年と平成23年、二度の発掘調査で寺域を区画した溝と、境外の北側に点在していたと思われる大型の礎石列や雨落ち溝が確認され、1町半(約165m)四方の大きな寺院の姿が浮かび上がってきました。

金堂は東西7間・南北4間で、金堂・講堂・僧坊が南から北へ並んでいたと考えられ、現在の法華寺境内に尼寺のものとされる礎石20個が残っています。
仁和2年(886年)、讃岐国守となった菅原道真が当寺を訪れ、「法華寺白牡丹」と題する漢詩を詠んだとされ、今でもそれに因んで、法華寺境内には白牡丹が植えられています。

五色台の南麓にあって、落ち着いた佇まいを見せる法華寺。かつては、ここに大規模な堂宇を営む讃岐国分尼寺があった。

五色台の南麓にあって、落ち着いた佇まいを見せる法華寺。かつては、ここに大規模な堂宇を営む讃岐国分尼寺があった。

 

袋山

標高261mほどの袋山は、東讃側から見るとこれといってとくに特徴の感じられる山ではありません。
たしかに円錐形の美しい山容はしていますが、讃岐には長い浸食作用によってできたビュートと呼ばれるこうした独立峰がたくさんあるからです。

袋山の注目すべき点は、ひとえに善通寺側から見渡したときに、夏至の日の出方向にぴったり位置する非常に特徴的なランドマークだといえるところです。
二至二分(夏至冬至、春分秋分)などの一年の節目に当たる特別な日の太陽の出没とオーバーラップするランドマークを探すことを「山当て」といいますが、山当てによってランドマークとされた山は、それだけで聖地としての要件を備えているとみなされます。

いったん聖地とされると、後に物語が付加されることもよくあります。
袋山の麓には「桃太郎神社」があり、その周辺は「鬼無」という地名です。
ここに伝わる桃太郎伝説は、讃岐国守だった菅原道真が、地元の漁師から聞いた海賊退治の話をおとぎ話にまとめたもので、それが全国に伝わったといわれています。
しかし、桃太郎伝説は瀬戸内海を挟んで対岸の岡山側にもあり、どちらかといえばそのほうが有名です。
岡山の桃太郎伝説は、かつて「鬼」とされた吉備の勢力と大和の勢力のぶつかり合いの記憶が元になっているといわれますが、香川側にも吉備の勢力は基盤を持っていたので、岡山と同じ構図で桃太郎伝説が生まれたのかもしれません。

袋山の頂上からは周囲がよく見渡せ、花崗岩が累々としているので、いかにも「鬼」が拠点としそうです。

 

石清尾山

高松市街の南西に位置する石清尾山は、峰山町、室町、宮脇町、西春日町、鶴市町、西宝町にまたがる大きな山塊で、その頂上周辺にはおびただしい古墳があります。
これは積石塚古墳群と呼ばれ、円墳や積石塚が20基以上確認されています。
造られたのは4世紀から7世紀と長く、銅鏡、銅剣、同鏃、碧玉製石釧(いしくろ)、筒形銅器、鉄剣、鉄鏃、鉄刀、鉄斧など多様な副葬品が出土しています。

このことから石清尾山は有力な豪族の埋葬地として長い歴史を持ち、「讃岐の王家の墓」ともいえる機能を果たしていたことがわかります。
北東から東に広がる高松市街の平野は、古代から集落が営まれ、「死者の魂は山に還る」という山岳信仰から南西方向にある石清尾山が死者の魂が還る場所と考えられたのでしょう。
市街地から見れば石清尾山は冬至の太陽が沈む方向にあたり、太陽の再生する日である冬至と死者の魂の再生がかけられていたともいえます。

石清尾山に古墳群が築かれたのは、この場所が周囲の地形を利用した「山当て」のしやすい場所であったことが要因であることがよくわかる。

石清尾山に古墳群が築かれたのは、この場所が周囲の地形を利用した「山当て」のしやすい場所であったことが要因であることがよくわかる。

 

高松城址(玉藻公園)

日本屈指の海城ともうたわれた高松城も、讃岐の基本ライン上に位置しています。
風水的に見れば、北東鬼門の方向に屋島があり、裏鬼門には石清尾山があります。
いずれも讃岐屈指の聖地であり、この二つに守護される場所を「良地」と考えたのでしょう。

また、二至を結ぶレイラインという意味では、屋島北嶺の方向から夏至の太陽が昇り、石清尾山の方向に冬至の太陽が沈むことが、太陽の循環再生を象徴し、高松藩の繁栄と永続を祈念する意味であったともいえます。

 

屋島

屋島は、南北5km・東西3kmのメサ(端部が懸崖になった台地)で、標高292mの南嶺から標高282mの北嶺にかけて山頂は平坦な島です。
屋島といえば、すぐに思い浮かぶのは源平合戦ですが、ここは古代から重要な戦略拠点とされてきました。

弥生時代にはすでにこの台地の上に集落が営まれていました。
その集落は古墳時代から飛鳥時代まで続き、飛鳥時代には屋嶋城が築かれます。
屋嶋城は近年その壮大な石垣が復元され、全貌が明らかになってきましたが、屋島自体を巨大な城として利用し、瀬戸内海の制海権を握るとともに、大陸や朝鮮半島からの侵略に備える防衛拠点とされました。

白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、大和の防衛のために対馬から畿内にかけての要衝に防御拠点を築きます。
「大和国に高安城、讃岐国に屋嶋城、対馬国に金田城を築く」と『日本書紀』の天智天皇6年(667年)条に記されています。

高松市内のほとんどの場所から、その独特の山容が望め、また讃岐の基本ラインの西端に位置する香色山からも確認できます。

屋島の麓には多くの寺社が点在し、その社殿は屋島の頂上を向けられたり、あるいは屋島を背にする形に配置されています。
また離れた場所にある寺社が屋島を意識した配置になっている例も多く、ここが古くから東讃の中心的な聖地として崇められてきたことがわかります。

庵治半島の大仙山からの屋島遠望。特徴的なメサ地形が東讃の地理と信仰を象徴している。

庵治半島の大仙山からの屋島遠望。特徴的なメサ地形が東讃の地理と信仰を象徴している。

近年復元された屋嶋城の石垣。その規模の大きさから、大和朝廷がここを最重要の防衛拠点と考えていたことがわかる。

近年復元された屋嶋城の石垣。その規模の大きさから、大和朝廷がここを最重要の防衛拠点と考えていたことがわかる。

屋島山上にある第84番札所「屋島寺」の山門。

屋島山上にある第84番札所「屋島寺」の山門。

屋島山上にある四国八十八ヶ所霊場第84番札所「屋島寺」は、天平勝宝6年(754年)に朝廷に招かれた鑑真が大和に向かう途中に立ち寄って開創し、その弟子の恵雲が堂宇を建立したと伝えられています。
北嶺には千間堂遺跡があって屋島寺の前身とされ、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の勅願を受けた空海が、現在の南嶺に移して千手観音像を本尊としたといわれています。

 

このように讃岐東部の基準線ともいえるレイラインは、讃岐の長い歴史上の聖地の数々を貫いています。
要所には四国八十八ヶ所霊場もあり、遍路の歴史とリンクもしており、たいへん興味深いラインです。
このレイラインをさらに深く調査することで、讃岐の隠れた歴史を紐解いていくきっかけになるかもしれません。

 

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内田一成

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。