讃岐の遍路道中は札所間距離が1~2時間と近いところが多いのですが、70番札所本山寺と71番札所弥谷寺の間は少し距離が離れています。道中の中務茂兵衛標石に刻まれている「伊豫國」の表記から、新字・旧字を考察したいと思います。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
右(指差し)
本山寺
左(指差し)
弥谷寺
こちらの標石がある地点は、70番札所本山寺(もとやまじ)から71番札所弥谷寺(いやだにじ)へ向かう道中。
同区間の距離は約11km。香川県の札所間距離の中ではやや長めの部類に入ります。その道のりの多くは車道で、四国で最も交通量が多い国道11号を出たり入ったり。この石を過ぎてもう少し進むと寺がある弥谷山(いやだにさん/標高381m)への坂道が始まります。
<正面下部>
伊豫國宇摩郡●●●
施主 長野吉五●
「伊」の字がつく旧國名は、伊豆・伊勢・伊賀・紀伊・伊豫とありますが、ここでは「豫」の字が見えるので「伊豫國(いよのくに)」。現在の愛媛県です。
「宇摩郡(うまぐん)」は愛媛県東部。「四国中央市」という街がありますが、平成16年(2004)に市町村合併に際しては新市名案に新市域全体を表す「宇摩市」「うま市」等が上位に挙げられていたにも関わらず、現市名に決定された経緯があります。
「豫」は「予」の旧字のように認識されていますが、元々は別の意味を表す漢字。昭和21年(1946)に開催された国語審議会で検討が重ねられ「予(豫)」と紐づけられました。
「豫め(あらかじめ)」の読みは「豫」の字の方であり、「予定」や「予習」で用いられる「予」の字は、元々「豫」に含まれていたもの。
対して「予」は一人称。
松尾芭蕉(まつおばしょう1644-1694)の「奥の細道」序文に、
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり…
…予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず…
(一部省略)
とありますが、ここでの「予」は「私」と同じ意味になります。「予」は「余」とも書きました。
標石の右面に表記されている内容
<右面>
百四十度目為供養建之
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「140度目/279度中」の四国遍路は自身51歳の時のもの。
標石の左面に表記されている内容
<左面上部>
明治二十八年
二月吉良日
明治28年は西暦1895年。同年4月に前年に起こった日清戦争の講和条約である「馬関条約(ばかんじょうやく)※下関条約」が締結されています。
「吉日」の表現はよく目にしますが、「良」を重ねた「吉良日」は他ではあまり目にすることがない表現です。
<左面下部>
●●
この時は左面下部をあまり気にしていませんでしたが、写真を見ると何らかの字がびっしり刻まれていることがわかります。特に中央部には「くにがまえ」と思しき字が見られるので、施主・願主の他に、こちらの標石の建立に関わったどなたかの存在があるかもしれません。うっかりしていました。
近くにはまだ未取材の標石があるので、それらを訪ねた際にこの部分の解読を行いたいと思います。
【「弥谷山ふもと旧遍路道沿いの中務茂兵衛標石」 地図】