【香川県三豊市財田町】箸蔵寺を参拝した巡礼者が手がかりにしたと考えられる標石

香川県三豊市財田町の道の駅たからだの里さいたの第二駐車場に、金刀比羅宮・67番札所大興寺・69番札所観音寺を示す標石が残されています。立地や内容から箸蔵寺を参拝した巡礼者のために建立されたと思われます。

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道の駅たからだの里第二駐車場標石_正面拡大

主たる情報部分が頭文字の「古(こ)」と四文字でまとめられ、全体的なバランスの良さを醸し出している標石。

 

標石が立つ場所

道の駅たからだの里さいた第二駐車場標石_立地

道の駅たからだの里さいたの第二駐車場に標石が立っている。

標石が立つのは、香川県三豊市財田町(さいたちょう)の国道32号沿い、「道の駅たからだの里さいた」の第二駐車場です。季節及び県内外問わず大勢の人々で賑わう道の駅で、環の湯(入浴施設)やたからだの里湯の谷荘(宿泊施設)も人気です。それゆえの第二駐車場完備だと思いますが標石はその区画の角に立っています。

 

標石正面に表記されている内容

道の駅たからだの里さいた第二駐車場標石_正面

左右対称の配字に大きな字体ですぐに目につき判別も容易。


<正面上部>
右 古とひら へ三里
左 古まつを へ二里半
觀音寺へ四里


古とひら→金刀比羅宮または琴平
古まつを→67番札所大興寺
觀音寺→69番札所観音寺

この場所は、阿讃國境の猪鼻峠(いのはなとうげ)を越えて香川県側に下りて来た地点。これらの記載内容から徳島県側から訪れた旅人に行先・方角・距離を知らせる内容であるように感じられます。

「こまつお」は67番札所大興寺の地元での呼び名。現在発行される書籍等は大興寺の名称で統一されておりますが、昭和時代から平成時代に変わる頃まではガイドブックや道路標識等では小松尾寺の名称が用いられていた感があります。今でも山号「小松尾山大興寺」にその名を冠しています。

これら3点の情報を知らせたいメインターゲットは誰なのか考えた場合、そこはやはりお遍路さんでしょうか。とはいえ、この標石が立つ地点は四国八十八ヶ所の札所間には当たりません。そこは別格15番札所箸蔵寺の存在が考えられます。

「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん(はしをあぐるもの、われちかってこれをすくわん)」

箸蔵寺開創の弘法大師空海の言葉です。日本人であれば全員が食事に箸を使用する、すなわち全ての人間の救済を願って箸蔵寺を建立しそのように述べたと伝わります。
いにしえのお遍路さんは、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん。現在の金刀比羅宮、こんぴらさん)を欠かさず参拝していたようですが、更なるご利益を求めて「こんぴら奥の院」と称される箸蔵寺へも詣でる両参りも広く行われていたようです。

①→75番札所善通寺→こんぴらさん→満濃池(現在の別格17番札所神野寺)→※標石がある場所→猪鼻峠→別格15番札所箸蔵寺→打ち戻って76番札所金倉寺
②→66番札所雲辺寺→別格15番札所箸蔵寺→猪鼻峠→※標石がある場所→67番札所大興寺→

①はこんぴら詣りのストーリーとしては良いのですが、復路で同じ道を通らなければなりません。
対して②は距離が増大しますが一筆書きのようなルートを取ることができます。今も昔も打戻は避けられる傾向が強いので②のルートを選択するお遍路さんは一定数存在したことが考えられます。そのため琴平(①ルート)と小松尾(②ルート)の表記が対になっているのではないのでしょうか。

道の駅たからだの里さいた第二駐車場標石_正面下部

観音寺へは標石が指す方角へ進めば琴平経由より断然近く、現代では香川県道5号観音寺池田線として多くの人々に利用されている。

前述の「古とひら」「古まつを」は変体仮名を用いて表記され、おそらく寺社名を表していることに対して、「觀音寺」は楷書で刻字されています。この部分だけ左右対象になっていない点から後年追記されたものかもしれません。

この場所は昔から阿波・土佐から讃岐を結ぶ金毘羅街道の一つが通っていますので、お遍路さんではない人もたくさん通っていたでしょうから、左の方向へ行くと香川県西部の中心的な街である観音寺村(明治7年(1874年)9月-明治23年(1890年)2月。現在の観音寺市)がありますよ、という案内ではないかと思います。設置者がお遍路さんに特化した情報を考えていたのであれば、ここでの觀音寺が示すものは69番札所のことになります。

 

標石左面に表記されている内容

道の駅たからだの里さいた第二駐車場標石_左面

正面の幅広に対して左右はやや薄く、その左面にいくつか情報が刻まれている。


<左面上部>
明治四十年春建之


明治40年(1907年)3月21日に小学校令が改正され義務教育が6年になりました。現在は小学校6年+中学校3年が義務教育ですが、戦前の中学校は現在の高等学校に相当します。
大正4年(1915年)8月に初めて開催された(現在の)夏の高校野球大会の名称は「第1回全国中等学校優勝野球大会」。戦前・戦後で同じ名で呼ばれながら内容が異なる中学校の名称ですが、現在の中学校制度と区別するため戦前の中学校に旧制を付けて呼ばれるのはそのためです。

道の駅たからだの里さいた第二駐車場標石_左面下部

寄付額五円と記載されていますが、現代の価値に直すと?


<左面下部>
一金五円
寄付者四名


明治40年頃の5円がどれくらいの価値だったかの物差しに、当時米10kgの平均価格が約1円。現代の米の価格が4,000円くらいと仮定すると、1名あたり20,000円くらいだしあって標石を建てた計算になるでしょうか。
この場所は近年、国道の拡幅や道の駅整備が行われているので、標石は建立当初の場所からは少なからず移動していることが考えられます。しかしながら石の保存状態が良いことと見つけやすい場所にあるので、この場所を訪れることがありましたら道の駅で休憩がてら標石の観察を行ってみてはいかがでしょうか。

 

標石メモ

発見し易さ ★★★★☆
文字の判別 ★★★★★
状態    ★★★★★
総評:現代の四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路ルートではないものの、石の立地・大きさ・字の鮮明さがとても良好。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

【「道の駅たからだの里さいた第二駐車場の標石」 地図】

 

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。