【15番札所国分寺→16番札所観音寺】「滅罪生善」と記載された中務茂兵衛標石

徳島市内の15番札所国分寺と16番札所観音寺の間に中務茂兵衛標石があります。一見白化が目立ちますが、近くで見ると意外と字がはっきりしていて、「滅罪生善」という四文字熟語などの興味深い記載内容を知ることができます。

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滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_立地

こちらの中務茂兵衛標石は地蔵菩薩や他の標石が集約された区画にあります。

 

中務茂兵衛義教

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石正面に表記されている内容

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_正面上部

こちらの標石は上部を中心に白化があり、近くで見ないと読み取りづらいので上下にわけて見ていきます。


<正面上部>
右(指差し)
寺音観
滅罪生
善施主

観音寺→16番札所観音寺


場所は15番札所国分寺16番札所観音寺の中間で、この場所から観音寺への距離は1.3km・徒歩約20分です。「観音寺」は四国八十八ヶ所霊場では69番札所観音寺と合わせて2ヶ寺存在しますが、16番は「かんおんじ」69番は「かんのんじ」と、それぞれ読みが異なります。

滅罪生
善施主

「滅罪生善」とは罪障を滅ぼして善を生じる行動を表す四文字熟語ですが、半分でもない3文字目で区切るのが大変珍しいように感じます。標石のスペースの問題で「施主」と合わせて3文字×3文字の2行にしたかったのかもしれませんね。

右から縦書き→寺音観
は右から読みます。戦前の新聞等を目にすると見出しが右から書かれていたりするので「戦前の横書きは右から書いた」といわれることがありますが、それは少し事情が異なります。戦前の日本における公式文章は縦書きが基本ではありますが、横書きが存在しなかったわけではありません。その場合の横書きは現在と同じ左からです。一部例外はあると思いますが、
日本語の右横書き=縦書きの一文字改行
です。

例えば、

【閏年は逆打ち】

文章に【】のような表題をつけたいとして、本文は縦書きになるので新聞のような白黒誌面でも目立たせるためには字を大きくして並びを変えると有効です。

すなわち、

ち打逆は年閏

       本
       文
       ・
       ・
       ・

おそらく我々が目にしたことがある右から横書きは文章ではなく、見出しなどであるはずです。私は日本語で右から横書きの文章は見たことがありません。

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_正面下部

施主は2名で両者とも大阪在住の女性のようです。


<正面下部>
大坂南區三寺町村上●
仝北區天神橋筋一丁目
熊本ユウ?

大坂南区三寺町→現・大阪市中央区心斎橋筋二丁目・西心斎橋二丁目付近
仝北區天神橋筋一丁目→現・大阪市北区天神橋一丁目付近

仝→読みは「どう」で意味や使い方は同と同様


・大阪が大坂になっているが、阪をこざとへんで記すようになったのは1868年頃ではあるけれど、この時期は「大坂」「大阪」がまだまだ混在していたのだろうか
・南区は平成元年(1989)2月13日に東区と合区して中央区になった
・三寺町は「みつでらちょう」と読み、時代によって「三津寺」「御津」「三ツ寺」と表記は様々
・天神橋筋一丁目は二行に改行して記されている
・天神橋は天神橋筋六丁目(=天六)のように「筋」を付けて呼ばれることが多いが、住所においては昔から筋が付かない
・当標石全体にいえることだが、住所と氏名のように内容が変わる場合も空欄を設けず連続して記されている
・改行も多く見られるが「滅罪生 善」「天神橋 筋一丁目」のように区切りが良い部分に施すのではなく、三文字×三文字の二行など字の表記バランスを重視している

氏名が最後まで判別できないのですが、施主は2名いてどちらも女性であるように見受けられます。両氏とも現在の大阪市中央区・北区という大都会在住のようです。
三寺町は南区時代は三ツ寺町として存在しましたが、東区との合併で中央区になった際に現在の町名に改められました。大阪のメインストリートである御堂筋の交差点名に「御堂筋三津寺町」、その東西の通りに「三津寺筋」の名称を今も目にすることができます。
左の「天神橋筋一丁目」「熊本」氏は、3番札所金泉寺の門前にあるサイズの大きな標石の施主情報と同じで、標石リピーターさんのようです。
※3番札所金泉寺門前の中務茂兵衛標石に関しては、以下リンクの記事で紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【3番札所金泉寺門前】徳島県と香川県の國境を示す中務茂兵衛標石

 

標石右面に表記されている内容

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_右面

この距離からだと判別を諦めてしまいそうなのですが、近寄ると字はしっかり見える不思議な標石です。


<右面>
左(指差し)
寺分國
臺百五十七度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教


こちらの標石は近くで見た方がわかりやすいので、右面も上下にわけて観察を行いたいと思います。

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_右面上部

他の字との比較から正面・右面の寺名は後年追記されたものかもしれません。


<右面上部>

寺分國

國分寺→15番札所国分寺


15番札所国分寺からこちらの標石までは距離約600m、徒歩10分以内で来ることができます。

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_右面下部

全体的に下部の白化はそれほどではなく、近寄ると字の判別は難しくありません。


<右面下部>
臺百五十七度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教


中務茂兵衛「157度目/279度中」の四国遍路は自身53歳の時のものになります。

 

標石裏面に表記されている内容

滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石_裏面

裏面は隣の標石と隣接していて中部以下が観察しにくいです。


<裏面>
明治三十年八月吉辰


明治30年は西暦1897年。同年同月2日、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)が創立されました。同行の広く知られている事業に「宝くじ」がありますが、そのことについては当標石と同年同月に建てられた標石の記事に詳しく紹介しています。
※宝くじに関して触れている29番札所国分寺近くにある中務茂兵衛標石の記事は、以下リンクをご参照ください。

【29番札所国分寺近く】遍路道中の名物「へんろいしまんじゅう」と中務茂兵衛標石

 

標石メモ

発見し易さ ★★★★☆
文字の判別 ★★★★☆
状態    ★★★☆☆
総評:15番札所国分寺から16番札所観音寺へ向かう遍路道上ではあるけれど別ルートも存在するので、全てのお遍路さんが目にすることができるわけではありません。石は白化や苔が目立ち一見判別を諦めてしまいそうですが、刻まれている字の状態はそれほど悪くないので諦めずに読み取りを行いましょう。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

【「滅罪生善と記載された中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。