香川県三豊市には冬至・夏至を意識した聖地・レイラインの痕跡が今なお明確に残っています。三豊市内の71番札所弥谷寺や、空海の出生地ともいわれる「海岸寺奥の院」などお遍路関連史跡でも同じ法則を見ることができます。
冬至・夏至を意識した荘内半島の聖地
三豊市仁尾町は瀬戸内海に面した長閑な港町で、一年を通して日照時間が日本で最も長い気候を生かした製塩業で栄えていました。
太古には長閑な浦に縄文人や弥生人たちが暮らし、山を神と仰いでいました。
古代には九州から畿内へと渡っていった渡来人たちが中継地とし、畿内や対岸の吉備との交流拠点となります。
さらに中世から近世にかけては、この地を本拠とする塩飽(しわく)水軍が全国を結ぶ廻船業に乗り出し、日本全国から情報や富が集まりました。
そんな歴史を背景に、ここには様々な性格の聖地が開かれました。
もっとも特徴的なのは、夏至と冬至を意識した聖地が多いことです。
これは、縄文時代の太陽信仰がその基層にあることを物語っています。
荘内半島は、瀬戸内海に向かって細長く突き出し、冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶラインに沿う形になっています。
半島自体が夏至と冬至の太陽の方向を指していることで聖地とされるケースは、伊豆の稲取半島(半島が夏至の日の出を向く)や若狭の常神半島(半島が夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶラインに沿う)などと共通しています。
このように太陽が再生する「聖なる日=冬至」を地形そのものが指し示す場所は、太古から理想的な聖地とされてきました。
71番札所弥谷寺、海岸寺奥の院と冬至の入り日
少し内陸に入った弥谷山の中腹には四国八十八カ所霊場の71番札所弥谷寺(いやだにじ)があります。
ここは空海が7歳から12歳にかけて学問を学んだ場所と伝えられ、今は僅かな堂宇が残るだけですが、かつては谷あいに数百の堂宇が点在し、四国でも抜きん出た仏教学院として栄えていました。
この弥谷寺の中心にある大師堂の中には、まさにそこで空海が学問に励んだとされる獅子之岩屋があり、岩肌がむき出しのその側面には阿弥陀如来座像と大日如来座像、地蔵菩薩像の三つの磨崖仏が刻まれています。
この像が向いているのは、冬至の日の入りの方向で、かつては冬至の光がこの像に注いだものと思われます。
現在は、大師堂で囲まれたうえに、像の正面の方向には檀家霊廟があって、光が入ってくる隙間はありませんが。
その他、空海の本当の生地と伝えられる海岸寺奥院は本堂が冬至の日の入り方向を指し、荘内半島内に多くの氏子を抱える船越八幡神社も冬至の入日方向を指しています。
荘内半島の西に浮かぶ蔦島は島全体が聖域とされていますが、その海岸に立つ鳥居は夏至の日の出に向けられています。
さらに、子どもの守護神を祀る津島神社と弥谷寺を結ぶラインは津島神社から見て冬至の日の出方向に一致し、弥谷寺の先にラインを伸ばしていくと金毘羅宮に突き当たります。
金毘羅宮自体も山上にある本殿は夏至の日の出の方向を指し、その参道もこのラインに沿って伸びています。
香川県の他の地方に住む人は、三豊市に入るとよく道を間違えるといいます。
町の構造を比較してみると、県庁所在地である高松市は東西南北に道が伸びるオーソドックスな条里制の町で、その他の町も高松市同様の東西南北に道が伸びているか、あるいは海岸に沿った旧来の街道を基準にして、これに並行な道とそれに直行する道が付けられています。
これらの町では、東西南北の方位を意識するか、地形にしたがってクルマを進めれば方向を間違うことはありませんが、三豊市周辺は冬至と夏至の日の出日の入りを結ぶ方向とそれに直行する方向に道が付けられているために、東西南北や地形を基準に方向を定めようとすると逆に混乱してしまいます。
それが他所から来た人が三豊の町で道に迷う要因になっているようです。
冬至と夏至の太陽の方向を意識しながら三豊の街を歩き、史跡に触れてみると、新しい発見との出会いが待っています。
※本記事は三豊市でアウトドアツアーを実施している Free Cloud(フリークラウド) 主催の調査に基づくものです。