崇徳上皇をどのように祀り、敬って、その霊を慰めたのか、レイライン的な観点から見ると、古の讃岐の人たちの優しい思いが浮き彫りになってきます。
それは四国のお遍路の伝統にも繋がる死者に寄り添う宗教文化に根ざしたものでしょう。

崇徳上皇陵の二至レイライン

崇徳上皇が讃岐に配流され、弔われるまでの経緯や事情に関しては、以下リンクの記事をご参照ください。

白峯寺(第81番札所)と天皇寺(第79番札所)を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン【「讃岐配流と非業の死」編】

白峯寺(第81番札所)と天皇寺(第79番札所)を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン【「怨霊伝説と讃岐の鎮魂」編】

 

崇徳上皇陵は現在の81番札所「白峯寺」に隣接していますが、その御陵へと向かう参道は、陵を背にして冬至の入日方向を指しています。
前方は稜線があって、少し仰角がつきますが、それも計算にいれられているので、あきらかに冬至の入日を意識していると考えていいでしょう。

夏至の日出と冬至の日の入を結ぶ「二至ライン」は、一年のサイクルと「循環」を象徴しています。
この陵の構造は、崇徳上皇の魂が永遠に安らかであることを願う気持ちが込められているのでしょう。

崇徳上皇陵の参道。

夏至の日出、冬至の入日の二至のラインを正確に示している。

シミュレーションすると、陵を背にして冬至の入日をぴったり見据える構造になっているのがわかる。

【「崇徳上皇陵」 地図】

 

一方、江戸時代末期に造営され、明治天皇の命によって崇徳上皇の魂が還御された京都の白峯神宮は、ちょうどこの陵の背後、遠く180km以上も隔てて、やはり二至を結ぶライン上にあります。
これは、朝廷側から崇徳上皇への、700年以上も不遇な状況に置いてしまったことの詫びの印なのかもしれません。

180km以上の距離を隔てて二至ライン上に並ぶ崇徳上皇陵と白峯神宮。

【「白峯神宮」 地図】

 

79番札所「天皇寺」と崇徳上皇

81番札所「白峯寺」とともに、79番札所「天皇寺高照院」もその名が示すように、崇徳上皇の御霊を弔う寺院です。

天皇寺の寺伝によれば、天平年間(729~749年)に行基が金山彦・金山ヒメが鎮座する金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創したのがはじめで、さらに、空海が八十場の泉を訪れたときに、荒廃していた堂舎を再興したとされます。
空海はその寺域にあった霊木で本尊の十一面観音と脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置、さらに薬師如来を刻んで金山薬師を造営したとされます。

長寛2年(1164年)に崇徳上皇が崩御されると、その年のうちに上皇の霊を鎮めるため二条天皇は、ここに崇徳上皇の霊を勧請しました。
八十場の泉に浸された崇徳上皇の体が20日経っても生きているようだったことと、空海が水の仏として刻んだ十一面観音をだぶらせ、慰霊の意味を込めたのでしょう。

古くは金山薬師が札所に数えられていましたが、後に崇徳上皇を祀った天皇寺高照院に札所が移ることになります。

面白いのは、白峯の崇徳上皇陵の参道が向く先を延長すると、冬至の日がしずむ尾根を越えて、ぴったり天皇寺に当たります。
さらにその背後の金山の頂上も重なります。

崇徳上皇が配流されるずっと以前から、白峯(五色台)と金山は重要な聖地であり、二至ラインで結ばれることが意識されていたでしょうから、これも深い鎮魂の意味を表していると考えられます。

崇徳天皇ゆかりの白峯宮と隣接する79番札所「天皇寺」の本堂。

天皇寺はもともと白峰宮の別当寺だった。

崇徳上皇陵の参道ライン。

崇徳上皇陵の参道の延長線に並ぶ天皇寺と金山。これはもともと古い太陽信仰のレイラインとして意識されていたところへ、崇徳上皇の御霊の鎮魂を重ねたものだろう。

【79番札所「天皇寺」 地図】

 

崇徳上皇関連史跡

坂出市には、ほかにも崇徳上皇に関連する史跡がたくさんあります。
いずれも地元の人が今でも大切に守り続けています。
多くが遍路道の沿線にありますので、お遍路かたがた、立ち寄って、崇徳上皇の御霊を弔ってみてはいかがでしょうか。

・十三重石塔
白峯寺へ向かう途中の右手にあります。
源頼朝が崇徳上皇の菩提の為に建立したと伝えられていますが、左右二つの塔の記された銘の年代は、頼朝が生きた時代よりだいぶ後になります。

・松山の津
中世の頃は海は今より内陸まで貫入してきていて、白峯の南西にある雄山と雌山の間が松山の津でした。
先に記したように、保元の乱に破れた崇徳上皇はここ松山の津に上陸したと伝えられています。

・雲井御所
崇徳上皇の御所が国司庁近傍に完成するまでの3年間、国司庁長官綾高遠の館を仮御所として滞在されました。
「ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて」と詠んだ歌にちなみ「雲井御所」と呼ばれるようになりました。

・姫塚
雲井御所に滞在する間に、崇徳上皇は綾高遠の娘「綾の局」との間に皇子と皇女をもうけたと伝えられています。
その皇女の墓とされるのが、姫塚です。

・鼓岡神社
雲井御所で3年間過ごした後、崇徳上皇は完成した鼓ヶ岡の御所「木の丸殿」に移りました。
ここが今の鼓岡神社です。
ここは、讃岐の始祖である讃留霊王ゆかりの地でもありました。
しかし、「御所」と言っても質素な建物で、自らの不遇と都への想いを募らせながら、ここで6年間を過ごし、長寛2年8月にこの地で崩じました。

・菊塚
鼓岡神社から少し北に行ったところに石積みの塚があります。
ここは崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇子(顕末)の墓と伝えられています。
横には綾の局の墓も並んでいます。
この塚の石積みは、二人を偲んだ里人が綾川から石を拾ってきて積んだものです。

 

ここまで、日本史上もっとも恐れられた怨霊と知られる崇徳上皇にまつわる歴史や讃岐國ゆかりの地に関してご紹介してきました。
現代にも残る史跡をレイライン的観点で見てみると、四国の根底に流れる文化背景やお遍路をはじめとする宗教的背景と深く関連していることがわかってきました。
今後さらに詳細な調査を進めていきたいと思います。

 

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内田一成

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。