新川の遡上を続け源流に近寄ってきた三木町とさぬき市の境目あたりに、古墳が群集する一帯があります。
そこには源義経の妾「静御前」や「行基」由来の史跡もあり、聖地として崇められてきた歴史を感じます。

静薬師

和爾賀波神社の南、行基が造営したといわれる鍛治池のほとりにある薬師堂は、静御前が源義経の菩提を弔った庵だと伝えられています。
※新川の起点から、鰐河神社・和爾賀波神社までに関しては以下リンクの記事をご覧ください。

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豊玉姫の聖地とレイライン―屋島から新川を辿る―【「鰐河神社」「和爾賀波神社」編】

 

静御前は、文治二年四月八日鶴岡八幡宮で舞った後、七月末に源義経である男子を産みます。
しかしその日のうちに子供を殺され、母とともに京へと登り、さらに母の故郷である讃岐の丹生(にぶ)小磯に落ち着いたとされています。

そして、文治四年の春に、現在の87番札所でもある「長尾寺」で宥意和尚から世の無常を諭され、母とともに髪を下ろして母は磯禅尼、静は宥心(ゆうしん)尼と名乗り、母の縁者がいたこの地に草庵を結びました。
やがて静の侍女だった琴路も訪ねてきて、ひたすら義経とわが子や家来たちの冥福を祈りました。
翌年暮れ、母が井戸川のほとりで倒れて亡くなり、それから一年後、静も病で亡くなります。
建久三年三月十四日、静は24才でした。
その7日後、琴路も鍛治池に入水して後を追いました。

静薬師の堂の横には、静御前と息子、母、そして琴路を祀った石塔が立てられ、白山を仰いでいます。

薬師堂の傍らにある石塔。

優美な白山を仰ぐように石塔が安置されている。

この静薬師周辺には古墳が多く点在しています。
川上古墳は、5世紀後期に造営された円墳で、直径20~22m。幅1.2m、長さ4mの竪穴石室があり、高台付有蓋壺2基の他、土器、冑、鉄鏃、鎧、太刀などが出土しています。
稲荷山古墳は4世紀前半の造営。全長40m、後円部直径20mの前方後円墳で南北を向いています。

静薬師周辺には大規模な古墳が群集している。

石室が保存・保護されている。

 

【「静薬師」 地図】

 

空風呂

また、この周辺は行基ゆかりの地でもあり、鍛治池の他にも行基が建設した溜池や寺院があり、今では全国でここだけとなった「空(から)風呂」も残され、現役で使われています。

日本に唯一残る「空風呂」。行基が考案したと伝えられる。

空風呂はいわば古代のサウナで、幅1.2m、奥行2.7m、豊島石を用いた石室が作られ、すき間は粘土で固め、さらに全体が築土で覆われています。
石室の中で、小枝がついたままの松葉を焚き、次に濡れむしろと濡れごもを交互に重ねて塩をまきます。
さらにその上にむしろを敷いて、しばらく戸を閉めておいて、石室内部に熱がこもるのを待ってから、単衣の着物に手ぬぐいを被って入り、座布団に座って体を温めます。
神経痛、リューマチ、冷え症などに効果があるとされています。

 

【「空風呂」 地図】

 

大規模古墳が点在したり、行基縁の物件の多さを見ると、この周辺が早くから開け、瀬戸内海を渡ってきた海人族が定住した場所であると推定され、新川沿いの聖地性をそなえた場所のひとつです。

※「豊玉姫の聖地とレイライン―屋島から新川を辿る―」は以下リンクの記事に続きます。

豊玉姫の聖地とレイライン―屋島から新川を辿る―【「嶽山」「山大寺」「氷上八幡神社」編】

 

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内田一成

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。