こんぴらさんがある象頭山とつながる大麻山にも二至を明確に意識した聖地が存在します。複数の聖地や周辺地形とのつながりに着目すると、古代の祭祀遺跡の痕跡が浮かび上がります。
二至を意識したこんぴらさんとその周辺の聖地
香川県西部の聖地に関しては、以下リンクの記事でご紹介してきました。
【讃岐レイライン】善通寺と屋島を結ぶ線は讃岐レイラインの大動脈
【香川県三豊市】冬至・夏至を意識した聖地・レイラインとお遍路関連史跡
【71番札所弥谷寺-73番札所出釈迦寺】空海幼少期の足跡を示すレイライン
これらはすべて二至(夏至と冬至)を意識したレイラインに沿って、聖地が並び、さらにはその聖地の構造がこれらを明確に意識している場所でした。
今回取り上げるこんぴらさん周辺も、それを強く意識したものであり、また、先に挙げた讃岐西部のレイラインとも結びついています。善通寺は空海の聖地であり、また金毘羅山も含むこのエリアは、古くから山岳信仰、修験道の聖地として、多くの修行者が足跡を残しています。もちろん、その中には空海も含まれています。
二至を意識するということは、太陽の恵みが最大となる夏至に、その恵みに感謝し豊穣を祈り、太陽が衰え、陰極まる冬至に太陽の再生を願うと同時に、一年のスケールで天空を巡る太陽のサイクルに永遠性を見た人々が、自らの命脈が子孫へと受け継がれていくことの願いが込められています。
四国は「死国」を由来とするという説もありますが、ここでいう「死」は死に絶えて消滅するという意味ではなく、太陽が冬至にいったん死んで再生するように、再生へ向けての切り替えの場所であるということを意味しています。
四国において、二至に並ぶ聖地を巡礼して、自らの魂の再生を願った太古、古代の修行者たちの意識が空海に受け継がれ、それが後に四国八十八ヶ所巡礼を生み出すこととなったのでしょう。その意味では、西讃の二至に並ぶこれを意識した聖地は、四国八十八ヶ所=再生の巡礼のルーツともいえます。
大麻山の聖地「龍王社」
金刀比羅宮の奥社からさらに狭い巻道を北進すると、大麻山山頂近くの尾根筋で龍王社に出ます。
※金刀比羅宮と奥社に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。
「上代噴気孔遺趾 龍王社」の石碑があり、祠はほとんど水のない沼地様の龍王池に囲まれています。かつては、ここから噴気が出ていたのか、あるいは早朝などに立ち昇る蒸気が、龍王が吹き上げる噴気に見えたのかもしれません。
龍王というからには、竜神を祀った雨乞いの聖地だったのでしょう。
山頂付近から下界を見下ろす野田院古墳
龍王社から大麻山の頂上を越えて、さらに北へと降りていくと、そこには見事な石積みを見せる野田院古墳があります。
標高400mの見通しのいいテラス状の広場になっていて、東を向けば大麻山山頂が間近に迫り、西側は善通寺五岳山から遠く瀬戸内海まで見通せます。
古墳は全長44.5mの前方後円墳で、前方部は長さ23.5m×最大幅13m×高さ約1.6m。盛り土をした後に表面に石が置かれ、後円部は直径21m×高さ約2mの積石塚状になっています。堅穴式石室の他にもうひとつの石室があり、ガラス玉や鉄剣、土師器などが出土、古墳の周囲からは壷形土器が数多く出土しました。これらの副葬品は弥生時代の特徴を持ち、弥生時代後期から古墳時代初期の3世紀後半のものと推定されています。
中世には野田院という山岳仏教寺院がって、栄えました。遺跡の名前はそれに因んでいます。
ここで、位置関係を俯瞰して見ると、東に聳える大麻山山頂から夏至の太陽が登り、北西方向にある我拝師山に夏至の太陽が没する形になっています。さらに、古墳の構造を見ると、前方部の玄室は夏至の日出と冬至の日の入を結ぶ二至ラインに一致しています。こうした構造は、金刀比羅宮や善通寺とも共通するもので、この周辺一帯が、古墳時代以前から太陽信仰の聖地であり、祭祀が行われていたことを表しています。
こんぴらさんや善通寺周辺は、古代の祭祀遺跡の痕跡を残し、聖地性を備えた土地であることがわかります。現代でも信仰の聖地として多くの人をひきつけていますが、その構造に着目してみると、さらにその聖地性が際立つことでしょう。
【「野田院古墳」 地図】