阿波國23ヶ寺ゴール地点であり、土佐國16ヶ寺へ向かうスタート地点でもある23番札所薬王寺の門前に中務茂兵衛標石がのこされています。次の札所である24番札所最御崎寺への長距離や、別格13番札所仙龍寺の情報が記載されています。

シンボルの瑜祇塔が目を惹く23番札所薬王寺の門前に中務茂兵衛標石があるのですが、どこにあるかわかりますか。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容

正解は厄除橋右側の親柱横、改めて上の写真をご覧いただいて位置関係をご確認ください。
<正面>
右(指差し)
東寺へ
二十一里
伊豫國三角寺●●
厄●●
●●
●●
上の写真では左面と正面が見えています。電信柱に近いほうが正面です。
東寺→24番札所最御崎寺
二十一里→約82km
この場所から遍路札所間距離第2位の23番札所薬王寺から24番札所最御崎寺への道のりが始まります。これは中務茂兵衛標石に記載されている距離では最長のものではないでしょうか。札所間距離第1位は37番札所岩本寺から38番札所金剛福寺の区間ですが、岩本寺付近に次の札所への距離を示す標石があればそちらが最長ということになりますが、私が知る限りではそれは見たことがありません。
伊豫國三角寺●●
とくれば、三角寺奥之院を紹介する
伊豫國三角寺奥乃院●●
厄除大師尊像の御開帳●●
巡拝の輩は●●
當二世乃利益を●●
と同様のことが記されているのかなあと思いました。こちらの石でそれを解読することができないので、これまでに調査した3番札所金泉寺付近にある標石から紐解きました。これまで多くの標石を調査したおかげで、過去に調査した石の記載内容が解読の手掛かりになるケースが増えています。
※65番札所三角寺の奥の院である仙龍寺の情報が記載されている3番札所金泉寺近くの標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【3番札所金泉寺近く】遠く離れた奥の院仙龍寺の情報が刻まれた中務茂兵衛標石
標石の右面に表記されている内容

標石右面中部に建立年度、下部に添句と思しき文字が刻まれているのですが、石にこれ以上近寄ることができないことと白化が著しいので、情報収集はここまでに留まります。
<右面>
明治三十六年二月吉辰
●●
明治36年は西暦1903年。同年3月、山陽汽船商社によって「岡山-高松」「多度津-尾道」の定期航路が開設されました。これらは明治43年(1910)6月に開業した宇高連絡船の前身にあたります。
明治36年(1903)3月 山陽汽船商社によって「岡山-高松」「多度津-尾道」航路開設
明治39年(1906)12月 鉄道国有化により、山陽鉄道の事業であったこれらの航路が国鉄管理に移行
・
明治43年(1910)6月 宇野線開通。両航路を統合する形で宇高連絡船開設
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・
昭和62年(1987)4月 国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)に移管
平成3年(1991)3月 JR宇高航路廃止
令和元年(2019)12月 四国フェリーが運航を休止。宇野・高松航路が事実上終焉
当初は宇野線が開通していなかったため、発着港は岡山市街地にありました。その地点は旭川に架かる京橋付近で、天正元年(1573)に宇喜多直家が岡山城築城に合わせて整備した歴史ある港です。しかしながら川の港なので大きな船が入ることができず、旭川河口左岸の三蟠で大型船への乗り換えを余儀なくされていたため、利用は低迷したそうです。明治43年(1910)の宇野線開通により宇高航路が開設され、以降は宇高連絡船が本四連絡ルートとして定着しました。
ちなみに京橋の港は現行で、貸切船などに利用されています。2022年に開催された瀬戸内国際芸術祭2では、当港を発着して芸術祭会場の離島を行先とする臨時航路が開設され、芸術祭来訪者のみならず古の本四航路の復活と、別方面でも話題になりました。
標石の左面に表記されている内容

正面→電柱が近い、右面→後ろに水路がある、裏面→構造物が添えられていて字が見えない・橋が近い、の事情から当左面が最も見易くなっています。
<左面>
右(指差し)
平等寺
五里余
大師坐像
施主
●●
記載情報的には副面なのですが、こちらの左面が前向きになっているので、現在の役割としては事実上正面扱いといっても良いかもしれません。

下部が埋め立てられているので少なからず移設だと思われますが、再設置にあたり22番札所平等寺の方向をメインに据えたのかなという印象です。
<左面上部>
右(指差し)
平等寺
五里余
平等寺→22番札所平等寺
五里余→約20km
標石の正面判定は次の行先を示しているかどうかです。四国八十八ヶ所まいりには順路があるので、順打ちで次の札所の情報が記載されている面が正面になります。

施主名が6名ほど刻まれているように見せますが、字が小さく判別が難しくなっています。
<左面下部>
大師坐像
施主
●●
こちらの大師坐像は三角寺奥之院(=別格13番仙龍寺)を表すときによく描かれるものです。
※徳島県小松島市にある標石に同様の大師坐像が描かれており、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【17番札所井戸寺→18番札所恩山寺】施主の職業が記されている中務茂兵衛標石
標石の裏面に表記されている内容

当標石は美波町教育員会から史跡指定を受けているようで、そのことを知らせる標柱があります。
<裏面>
●● ←巡拝回数と思われる
●●大島郡●●
●●中務茂兵衛義教●●
右面に密着する形で標柱が立てられているので、こちら右面の情報が隠れてしまっています。右面のすぐ横には厄除橋の親柱があるので、撮影もこれが精一杯です。
巡拝回数の部分が見えないので、裏面の建立年度を参考に回数を予測してみます。
以下リンクの記事では、明治35年12月→192度目です。
【3番札所金泉寺門前】徳島県と香川県の國境を示す中務茂兵衛標石
以下リンクの記事では、明治36年7月→197度目です。
【5番札所地蔵寺近く】湖国の人の寄進によって建てられたと推察できる中務茂兵衛標石
明治35年12月【192度目】・・・明治36年2月【?】・・・明治36年7月【197度目】
明治35年12月から明治36年7月まで最大日数が約240日として、その期間に巡拝回数がプラス5周。だいたい50日で1周くらいでしょうか。12月1日から始まって7月31日というわけではないでしょうから(最短日数の12月31日から始めて7月1日で終わると約180日。そうすると36日で1周)、両方のケースを平均すると、一周平均45日ペースだと想定できます。そうすると明治36年2月は193度目か194度目かなあと予想します。
明治36年は茂兵衛自身59歳の年。そのご年齢で40日そこそこで四国八十八ヶ所を一周されるとは、やはり遍路の鉄人です。
※美波町中心市街地に移設された標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【美波町中心市街地】三叉路の高低差を表現している移設された中務茂兵衛標石
標石メモ
発見し易さ ★★☆☆☆
文字の判別 ★☆☆☆☆
状態 ★★☆☆☆
総評:23番札所薬王寺門前ではありますが、橋の親柱と同化している上に電信柱に挟まる形になっていて、それが標石だと気付きにくい。すぐ横の構造物に文字が隠されているので、記載文字の観察や写真撮影に必要な距離を確保することが難しい。石の白化も顕著です。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「23番札所薬王寺門前の中務茂兵衛標石」 地図】