標高633mに位置する別格15番札所箸蔵寺への参拝の足は、現代ではロープウェイが担っています。しかしながら戦前・戦後の一時期は今と少々事情が異なり、リフトが運行していたことがあり、その遺構を今でも見ることができます。
戦争により失われた箸蔵登山鉄道
別格15番札所箸蔵寺がある箸蔵山の麓の箸蔵山ロープウェイ登山口駅に到着するとまず目に入るのが、建物に大きく掲げられている「箸蔵山ロープウェイ」の青い看板(一つ前の写真)と、その発着駅。
ここではその駅背後の斜面をご覧ください。
現在はロープウェイが寺院への足となっていますが、箸蔵寺へ向かって最初に開通した交通機関はケーブルカーでした。
昭和5年(1930)6月…開業
昭和19年(1944)2月…不要不急線の指定を受け廃止
「不要不急線(ふようふきゅうせん)」
とは、日中戦争から太平洋戦争へ突入する前の昭和16年(1941)8月30日以降、政府の命令によって廃止された路線。
不足する鉄材の徴収を目的として、輸送密度が少ない路線や箸蔵登山鉄道のように寺社参詣のような「今必要ない」と判断された路線が選ばれ、軍事上建設が急がれる路線への資材の転用や、軍艦など兵器の原料に充てられました。
四国内では参詣型の鉄道・鋼索鉄道が、
箸蔵登山鉄道…昭和19年(1944)2月11日廃止→46年(1971)4月1日箸蔵山ロープウェイ開業(※現在のロープウェイとは異なる)
屋島登山鉄道…昭和18年(1943)休止→25年(1950)4月に復活するも、平成16年(2004)10月16日休止、翌年廃止
八栗登山鉄道…昭和19年(1944)2月11日休止、35年(1960)廃止→39年(1964)年12月「八栗ケーブル」開業
琴平急行電鉄…昭和19年(1944)1月休止、29年(1954)廃止
戦争に翻弄されて運行停止を余儀なくされました。この中で戦後復活して今日も運行されているものは「箸蔵山ロープウェイ」と、86番札所八栗寺(やくりじ)へ向かう「八栗ケーブル」となっています(種類や運営会社が異なる)。
この場所から眺めていると一つ目の支柱の先で木が生えていない斜面がクロスしているように見えますが、こちらがケーブルカーの軌道跡と思われます。
現在の箸蔵山ロープウェイは頂上の本坊まで乗り換えなしで行くことができますが、途中この坂を登ったところで深い谷を一跨ぎします。さすがにそれをケーブルカーは越えることができないので、終点は途中の高燈籠と仁王門がある地点。そこから参道を歩いて寺院へ向かっていました。
リフト&ロープウェイで復活した箸蔵登山
こちらは「箸蔵山ロープウェイ」の看板が掲げられている建物1Fに残されている案内図。
「国鉄周遊指定地」
国鉄・周遊共に非常に懐かしい響きです。昭和62年(1987)の国鉄民営化以前に制作されたものであることが分かります。この中では左下に注目。
「リフト赤鳥居駅」「リフト大門駅」とあります。
箸蔵登山鉄道が戦時中の不要不急線政策によって廃止になった後、戦後寺院への足はロープウェイとして復活したと記しましたが、厳密にはそれは二代目のロープウェイ。一代目のロープウェイと今は現存しないリフトがありました。
その乗り場は現存していて、今は使用されていない建物の山手にあります。
戦前に廃止されたケーブルカーに変わって、昭和46年(1971)4月に新しく寺院への足として開業したのが「箸蔵山ロープウェイ」。ただし一代目ロープウェイのそれは途中で乗換が必要であり、かつてケーブルカーで登っていた部分は新設されたリフトを利用していました。
この状態は平成10年(1998)に老朽化によりリフト・ロープウェイが廃止されるまで続き、翌年平成11年(1999)に現在運行されている二代目ロープウェイとなり、乗換不要で寺院本坊まで行くことができるようになっています。
ケーブルカーの遺構
現在は構造物が無く草木が生え放題ですが、造り込みようからこちらが戦前に存在した箸蔵登山鉄道・赤鳥井駅の遺構だと思われます。両脇がプラットホームで、中央の草が生えている部分が軌道だったのではないでしょうか。
現在はそれがすっかり埋められていますが、その点については戦後リフトを建設する際に窪み(=ケーブルカーが停車する部分)を埋めたようです。先ほどのリフト詰所はこのプラットホームの右にありますが、そこから斜面に向かって造成された跡がなかったので、おそらくこのプラットホーム跡付近にリフト乗り場があったのではないでしょうか。
そうなるとリフト乗り場はプラットホームの下にあったのか上だったのかの話になりますが、個人的な予想ではプラットホーム上部端の給水塔がある辺り。リフトは平坦地で乗降を行わなければいけないので、斜めのプラットホーム上は無い。下部だと考えるとプラットホーム上を人間が歩くことがなくなるので、中央の窪みを埋めなくても良い。
リフトを低コストで建造するためには箸蔵登山鉄道の軌道跡を用いることが得策。そう考えると、かつてのプラットホームはリフト乗り場へのアクセス階段として再利用したのかな、と想像しました。
プラットホーム跡をたどって、ケーブルカーの軌道跡探索を行います。少し進むと片方のコンクリート構造物は無くなりましたが、一方には管理道路と思われるコンクリート階段が所々に残されていました。
こちらのコンクリート土台は、ケーブルカーに電気を供給するための架線を掛ける「架線柱(かせんちゅう)」の基礎跡でしょうか。金属部分がやや新しく見えるのでリフトの構造物かもしれません。
軌道跡と思しき斜面を少し上がったところ。車道と交差するところでその上部には立ち入り禁止のロープが施されていたので、軌道跡を歩いて探索するのはここまで。
その車道を少し登ったところに登山道(=箸蔵街道)との交点があるので、そちらを経由してケーブルカーやリフトの山上駅があった高燈籠を目指すことにします。
※取材時と異なり、現在は下部の旧リフト乗り場付近も立ち入り禁止になっています
高燈籠がある場所は、かつて巡礼者のクロスポイントだった
地元では「カザミノ丘」と呼ばれる部分に立つ箸蔵寺の高燈籠。往時には灯が点され、その光は吉野川を往来する船からもよく見えたそうです。
箸蔵寺へ向かう交通手段が開通してからは、この場所が中継地点・乗換地点になりました。
西から東に向かって流れる吉野川が見えています。広い地面が見えている場所は、徳島県立池田高等学校三好校(旧徳島県立三好高等学校)のグラウンドです。
池田高校と聞けば「やまびこ打線」で一世を風靡した池高(いけこう)が連想されますが、そちらは吉野川を渡った池田市街にあります。
ケーブルカー山上駅で見ることができるダイナミックな遺構
過去の文献を調べていると、ケーブルカー山上駅である「仁王門」駅は高燈籠の裏側(西側)にあったとされますが、その跡地はすぐに見つかります。山麓の「赤鳥居」と同じく、両側のコンクリート階段が間の窪みを挟むプラットホーム跡と思しきコンクリート構造物がありました。
ふもとのプラットホームでも下部にアーチを見ることができましたが、山上駅のそれの方がよりダイナミック。見える部分の破損は少なく、注意深く観察すると当時としては良質のコンクリートが用いられていることを確認することができます。
箸蔵登山鉄道が建造された時代は昭和初期の戦争前。いわゆる「十五年戦争」に突入してしまうと、物資はみな軍用最優先になります。戦争末期にはそれさえ困窮して、国の防衛を担う砲台に用いられるコンクリートでさえ小石混だらけになったりしました。
こちらのケーブルカーはそのような事情はなさそうで、造形の美しさからも工事を行う方々が想われる通りに建てられたのかなあと、良き時代を想像することができます。
登山リフトの山上駅跡と思しき構造物
先ほどのコンクリート構造物はほぼほぼケーブルカー跡地だと思われますが、その手前(=高燈籠寄り)の空間にもコンクリート土台をいくつか発見。こちらは並び方からリフトの構造物と思われます。
ケーブルカーを降車する場所は斜面。なのでプラットホームが階段構造になっているのですが、リフトは平坦地でなければいけません。
「山上駅で下車」
という点ではケーブルカーとリフトは同じですが、それぞれの駅があった場所や乗降位置は若干異なるものと思われます。
高燈籠前には木が植えられていない空間があり、ここにリフトの山上駅と、それから乗り換える一代目ロープウェイの「仁王門駅」があったのかな、と想像します。
箸蔵山において初代ロープウェイが開業したのは昭和46年(1971)4月で、同じ徳島県にある21番札所太龍寺(たいりゅうじ)へ向かう「太龍寺ロープウェイ」が平成4年(1992)7月の開業であることを考えると、四国におけるロープウェイ交通としては早い時期から存在したことになります。その初代ロープウェイの遺構を見つけようと周辺を散策してみましたが、それと思しき構造物を見つけることができませんでした。構造物が残されていると二代目ロープウェイと干渉してしまうので、残さず撤去されたのかもしれません。
現在は箸蔵寺へ向かうロープウェイはこの場所で乗り換えることなく、麓から山上まで一直線。徒歩で箸蔵寺へ向かう人は多いわけでは無いので、高燈籠や寺院の山門周辺は人の姿を見かけることがありません。ここに佇む高燈籠と仁王門は文化財に指定されるほど価値があり、箸蔵寺のシンボルでもありますが、幾度もの交通変遷を経て今は静かに佇んでいる姿が印象的です。
※高灯籠と仁王門、二代目ロープウェイに関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。
【別格15番札所箸蔵寺参道】箸蔵寺境内入口にある二つの文化財
【「箸蔵登山鉄道「仁王門駅」遺構」 地図】