20番札所鶴林寺の二羽の鶴が霊場守護を務める山門前に中務茂兵衛の標石が残されています。この標石は20番札所鶴林寺の奥の院であり、現在は四国別格二十霊場の3番札所である慈眼寺の方向と距離を示しています。
中務茂兵衛 < 弘化2年(1845)4月30日 - 大正11年(1922)2月14日 >
周防國大嶋郡椋野村(現 山口県周防大島町)出身。
18歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて 一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は 歩き遍路最多記録 と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
標石(しるべいし)
周防國大島郡椋野村(すおうこくおおしまぐんむくのむら)
第20番鶴林寺(だい20ばんかくりんじ)
慈眼寺(じげんじ)
讃岐國(さぬきのくに)
大川郡(おおかわぐん)
志度町(しどちょう)
長尾町(ながおちょう)
第86番志度寺(だい86ばんしどじ)
第87番長尾寺(だい87ばんながおじ)
間川三十二勝(まかわさんじゅうにしょう)
生名(いきな)
第19番立江寺(だい19ばんたつえじ)
—– 記事に登場する主な人物
竹林上人(ちくりんしょうにん / 1760~1800)… 人呼んで "讃岐の良寛さん"。竹を愛し、庶民地道に仏道を説いた聖僧。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう / 1848~1934)… 日露戦争時の連合艦隊司令長官。日本海海戦での完勝により、当時 国内外でロシアの圧迫に苦しんでいた国や地域を中心に英雄視された。
標石正面に表記されている内容は
奥之院
二里余
施主
長尾村 白井太郎
志度町間川 池田保次郎
20番札所鶴林寺の門前にある中務茂兵衛の標石。
「奥之院」とは、20番札所奥の院である慈眼寺のこと。四国八十八ヶ所霊場の番外霊場であり、現在は四国別格二十霊場の3番札所でもあります。
施主さんは別の面にも数名刻まれていて、全て讃岐國の方々。志度町は86番札所志度寺がある街、長尾町は87番札所長尾寺がある街。どちらも現在のさぬき市にあたります。
志度町の間川(まかわ)といえば、街から少し離れた小高い丘が広がるエリア。現在は付近を高松自動車道が通っています。
その地をこよなく愛した竹林上人ゆかりの場所で、「間川三十二勝」という奇岩・清流・竹林などが広がる景勝地は、お上人さまが開いたといわれています。
この道は鶴林寺へ続く登山道の別道で、この道の登山口(下山口)は、19番札所立江寺から来た際に登り始める生名集落より少し西に位置する。
すなわち奥の院へ行くのであれば、来た道を下りるよりここから下りた方が近道。
標石右面に表記されている内容は
立江寺
讃岐國大川郡志度町
施主
近藤文平
近藤茂一郎
多田嘉次郎
前の札所である19番札所立江寺の方向が示されています。
ここから進めば登山口の生名集落まで急下りで、登りはその逆。八十八ヶ所の中でも有数の遍路ころがしに数えられる難所区間ですが、その道は部分的に国の史跡に指定されている歴史ある遍路道です。
標石左面に表記されている内容は
明治三十三年十一月吉辰
明治33年は西暦1900年、19世紀最後の年。
日清・日露戦争の間の年代で、後に東郷平八郎長官を乗せて日本海でバルチック艦隊と戦った戦艦三笠が進水した年月になります(同艦は現在 神奈川県横須賀市の三笠公園にて保存)。
標石裏面に表記されている内容は
壱百七十九度目為供養建之
周防國大嶌郡椋野村住
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛56歳。境内にある「國宝」と刻まれた標石と同じタイミングで建立されたものと考えることができます。
20番札所鶴林寺の境内にある標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。
【20番札所】 | 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺(りょうじゅざん ほうじゅいん かくりんじ) |
宗派: | 高野山真言宗 |
本尊: | 地蔵菩薩 |
真言: | おん かかかび さんまえい そわか |
開基: | 弘法大師 |
住所: | 徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14 |
電話: | 0885-42-3020 |