太平洋に面した徳島県美波町にある木岐王子神社に残されている石灯籠には、江戸時代に発生した大地震「安政南海地震」と津波の記憶を伝える文が刻まれています。先人が後世に伝えようとした教訓は、お遍路さんにも語りかけてくるかのようです。

木岐王子神社の石灯籠は、嘉永年間の津波被害を後世に伝えています。
津波記録を伝える石灯籠がある「木岐王子神社」

23番札所薬王寺へ向かう遍路道に隣接する海岸沿いに、木岐王子神社と石灯籠があります。
木岐王子神社(ききおうじじんじゃ)は、徳島県南部の太平洋に面した美波町にあります。 この場所は23番札所薬王寺へ向かう海ルートの遍路道で、自動車の往来が少ない海岸線の道は、歩きお遍路さんに人気があります。写真に写る左手の道が遍路道で、ここから山座峠を経由して薬王寺へ向かっていきます。
旧由岐町は太平洋を望む海辺の静かな集落ですが、この土地は過去に幾度も大きな地震と津波に襲われてきました。その記憶を今に伝えているのが、神社境内に残る一基の石灯籠です。
※23番札所薬王寺へ向かう海ルートと山ルートの分岐点にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【22番札所平等寺→23番札所薬王寺】今と昔で与える情報が異なる中務茂兵衛標石
木岐王子神社の石灯籠

木岐王子神社の境内に立つ嘉永年間建立の石灯籠です。
長い年月を経てきたためか、倒壊を防ぐ目的なのか、火袋部分には補強が施されています。 一見すると、どこにでもある石灯籠のようにも見えますが、刻まれた文字を読み解いていくと、この灯籠が持つ意味が大きく変わってきます。

正面の記載から、この石灯籠が嘉永七年の中秋に建立されたことがわかります。
<正面>
嘉永七歳奉一燈寅中秋
嘉永7年は西暦1854年にあたります。 嘉永(かえい)という元号の由来は、宋書・楽志にある「思皇享多祐、嘉楽永無央。」という一文です。
これは、
「皇(すめら)を思い、多く享(すすめ)れば、嘉(よ)きを祐(たす)け、楽しみは永く央(つきる)こと無し」という意味になります。
当時、朝廷は改元にあたり「天久」と「嘉永」の2案に絞り、内意としては「天久」を幕府に伝えていました。しかし幕府は「嘉永」を強く推し、最終的に朝廷もこれに従ったと伝わっています。嘉永という元号の由来からもわかるように、この時代は公武合体が模索されていた時期であり、幕府としては朝廷への恭順の姿勢を示そうとする意図が読み取れます。 しかし、その思惑とは裏腹に、嘉永年間は大地震の発生やペリー来航など、全国規模で不穏な出来事が相次ぎました。結果として嘉永は長く続かず、同年中に安政へと改元されます。
この石灯籠が伝える南海地震は、嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生したものです。ただし、発生年中に改元が行われたため、現在では一般に「安政南海地震」と呼ばれています。
灯籠正面に刻まれている「中秋(ちゅうしゅう)」とは旧暦8月15日のことで、秋の真ん中を意味します。現代でも、9月から10月頃に月見団子やススキを供え、美しい月を眺める行事として知られています。
ここで、ふたつの疑問が浮かびます。
ひとつめは、「9月は秋の始まりではないのか」という点です。特に近年の猛暑を思えば、9月を秋の真ん中と呼ぶことに違和感を覚えるかもしれません。これは旧暦を基準としているためで、簡単にいえば、旧暦8月がおおよそ新暦9月、旧暦9月がおおよそ新暦10月に相当します。明治以降、旧暦で行っていた行事を、新暦で日程を変えずに行うようになったものは、季節感に1ヶ月ほどのずれが生じる場合があるのです。2月という厳冬期に節分や立春が訪れるのと同じ理由です。
ふたつめの疑問は、灯籠の建立時期が中秋(新暦では9〜10月頃)とされている点です。一方で、南海地震が発生したのは旧暦11月5日(新暦では12月24日)になります。裏面の記述を考えると、未来を予知して津波のことが刻まれたとは考えにくく、既に建立されていた石灯籠が南海地震の津波によって被災し、その後の再建に際して、津波の教訓が加筆されたと考えることができそうです。
当時の表現を見ることができる安政南海地震のあらまし

安政南海地震と当時ならではの表現についてみていきます。
嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震
半時之間大汐三度入行家流出四丈余上リ當宮流失
明翌八月遷宮
大地震ノ節油断亡之処荒方記置
嘉永七寅年十一月五日は晴天で、午後四時頃に大地震があり、
一時間のうちに三度の大汐が来て、家が流出した。
(波が)およそ四丈あまり上がり、当宮が流出したため、翌年八月に遷宮した。
大地震の節は油断しないよう、あらかたを記しておく。
分(ぶ):約3mm。1寸の10分の1
寸(すん):約3cm。1尺の10分の1
尺(しゃく):約30cm。尺貫法の基本
間(けん):約1.8m。6尺
丈(じょう):約3m。10尺
※石灯籠には四丈とあるので、この地点の津波高は約12mだったと考えられます。
この時代には、まだ「津波」という呼称が一定しておらず、ここでは「大汐」と表現されており、さまざまな言葉が使われていたようです。津波という呼び名が全国的に定着したのは、明治29年(1896)6月15日に発生した明治三陸地震以降とされています。
地震が発生した時刻として記されている「七ツ時(ななつどき)」は、江戸時代の時刻法による表現で、おおよそ現在の午後4時前後にあたります。江戸時代では、午前を「明け六つ」、午後を「暮れ六つ」とし、それぞれを六つの刻(とき)にわけていました。
子…九ツ/23:00~1:00
丑…八ツ/1:00~3:00
寅…七ツ/3:00~5:00
卯…明六ツ/5:00~7:00
辰…五ツ/7:00~9:00
巳…四ツ/9:00~11:00
午…九ツ/11:00~13:00
未…八ツ/13:00~15:00
申…七ツ/15:00~17:00 ※安政南海地震は16時20分頃に発生しており、ここが該当します
酉…暮六ツ/17:00~19:00
戌…五ツ/19:00~21:00
亥…四ツ/21:00~23:00
このように時間を表すことを「十二時辰(じゅうにじしん)」と呼びます。元々日本で時は十二支名で表していたものが、江戸時代頃から城や寺院で時報として鐘を打つことになり、その回数が「七ツ(の刻)」のように名称になったものとされます。
十二支名と鐘の回数が、それぞれ2時間幅を持たされているのは、夏と冬で昼夜の長さが異なるためです。夏は昼間が長く夜が短い、冬はその逆で、2時間幅を持たせることによって、夏も冬も用いることができる時刻法として考案されたわけです。
今日我々が使用している十二時辰由来の単語がいくつかあります。
「正午」という言葉は、「午の刻」のちょうど真ん中という意味です。午の刻は11時から13時にあたるため、その中央である12時が正午となります。1日のちょうど半分にあたる特別な時刻であるため、鐘の回数も九ツに戻されたと考えられています。
兵庫県明石市を通る東経135度が「日本標準時子午線」と呼ばれるのも、日本の時が始まる「子の刻(=0:00)」「午の刻(=12:00)」が由来ですね。
鐘に「三ツ」「二ツ」「一ツ」が存在しないのは、鳴動回数が少ないと聞き逃す場面が発生して、不穏な誤解を生むことを避けるためだったともいわれています。
「おやつ」という言葉も、十二時辰に由来します。午後3時頃にあたる「八ツ刻」に、ひと休みして軽食を取る習慣があり、「お八ツ」と呼ばれたことが語源とされています。家事でも仕事でも、ひと休憩としばし楽しみの時間を設けることで、日没までもうひとがんばりしようとする行動が、固有名詞になったわけですね。
「草木も眠る丑三つ時」という単語があります。これは江戸時代の「丑の刻/1:00~3:00」に当たります。
現代時刻でいえば午前2時頃のことを指すものですが、この単語自体が深夜の中心を表すものなので、夜が深いことをアピールできないといけません。「丑一ツ刻」「丑二ツ刻」では語呂が悪く、夜が深い印象が薄れます。丑の刻が表す1:00~3:00の真ん中であれば、正午と同じルールで「正丑」といっても良さそうですが、正午は1日の丁度半分という特別な時刻なので、午以外には正が用いられなかったようです。そこでより夜が進行した感を与える「丑三ツ刻」とした説があります。
もっとも丑三ツ刻以外の語呂が悪く聞こえるのは、文学作品などの言い回しで「丑三ツ刻」が頻繁に用いられているため、それが我々にとって聞き馴染みがあるためともいえます。
最後の「荒方記置(あらかたしるしおく)」は、古文書や日記などにみられる表現で、「大まかに書き留めておく」という意味を持ちます。
反対の表現として「詳細記置(つぶさにしるしおく)」があり、こちらは「細かに書き留めておく」ことを指します。
太平洋沿いの遍路道には、今もこうした石碑や灯籠が点在し、かつての津波災害を静かに伝え続けています。それらは恐怖を煽るためのものではなく、後世に大災害の教訓を託した、先人たちからの無言のメッセージのようにも感じられます。
旅の途中で得たこの小さな気づきが、いざという時に身を守る行動へとつながることがあるかもしれません。そう考えると、これもまた遍路修行のご利益のひとつなのかなと思えます。
【「木岐王子神社の石灯籠」 地図】










