香川県多度津町、四国の交通の要衝・多度津駅近くに遍路標石が残されています。「77番・へんろ道」と「弥谷寺道」と刻まれていて、四国八十八ヶ所霊場の案内とは別の視点があると思われる点を考察してみます。

多度津駅近くに、2ヶ所の行先が記されている標石があります。
標石の正面に表記されている内容

写真の植木の向こうに77番札所道隆寺の道路標識が少しだけ映っていますが、道隆寺がある方向はそちらになります。
<正面>
左(袖付き指差し)
七十七番
へんろ道
七十七番→77番札所道隆寺
標石が立つのは、香川県多度津町の多度津駅と多度津運転区の南西角にあたる交差点脇です。 この石の正面判定については、いくつかの材料があります。
①指差しが袖付きであること
②次の寺院番号が記されていること
特に①は有力材料です。袖付きの指差しは意匠としてやや装飾的で、主面に用いられることが多い形式です。
②の「七十七番」については疑問も残ります。本当に建立当初から77番札所道隆寺を示していたのでしょうか。
・字体や彫りの様子が他面とやや異なる
・道隆寺の実際の方角と一致しない
この点から、後年に追刻された可能性も考えられます。道路整備に伴う再設置によって向きが変わった可能性もありますが、道隆寺方向に合わせるとあとでご紹介する左面の向きが不自然になります。
そこで浮かぶのが、「へんろ道」は77番札所道隆寺ではなく、別格18番札所海岸寺方面へ向かう遍路道を指していたのではないかという仮説です。それならば標石の向きと整合します。この地点は、金毘羅街道と海岸寺・弥谷寺方面へ至る道が交差する場所でもあります。金毘羅詣の参拝者、番外霊場へ向かう人、四国八十八ヶ所霊場を巡るお遍路さん、多様な目的の旅人が行き交う結節点でした。そのため、あえて具体名ではなく「へんろ道」と総称した可能性も考えられます。後年に札所番号が補われたと仮定すると、この地が77番札所道隆寺が近いことから判断されてのことではないでしょうか。
もっとも、標石は建立当時の道路事情を物語る存在です。現位置に立つ姿は史跡として保存された結果であり、必ずしも本来の方向と一致しているとは限りません。内容と実際の方角が完全に一致しないケースも、十分にありえます。
標石の右面に表記されている内容

大正4年は西暦1915年です。
<右面>
大正四年八月建之
施主●●
同年8月には、第1回全国中等学校優勝野球大会が大阪・豊中で開催されました。今日の全国高等学校野球選手権大会の始まりです。当時はまだ阪神甲子園球場は存在していません。つまりこの標石は、甲子園誕生前夜の時代に建立されたことになります。
その時期は港と鉄道が発達し、四国への往来が活発化していた時期です。交通の近代化が進む一方、遍路という伝統的移動も続いていました。こちらの標石はその両時代をまたぐ存在といえそうです。
標石の左面に表記されている内容

正面との違いは、指差しに袖が無い点があげられます。
<左面>
右(指差し)
弥谷寺道
弥谷寺→71番札所弥谷寺
正面との違いは、指差しに袖が無い点です。 現在の札所順で考えると、この場所は76番札所金倉寺と77番札所道隆寺の間にあたります。71番札所弥谷寺は大きく戻る位置関係となり、札所巡りとしては逆打ち、しかも複数寺院を飛ばす形になります。
しかし視点を変えると見え方が変わります。
この石が主に想定していたのは、多度津港に上陸した人々ではなかったでしょうか。本州から海路で到着し、上陸後1km未満でこの分岐点に差し掛かると、そこで弥谷寺道とへんろ道を示され、それぞれの目的へ進んでいく、弥谷寺には「弥谷まいり」と呼ばれる供養の習俗があり、遍路とは別の信仰も存在しました。
興味深いのは、南北に延びる道が金毘羅街道であるにもかかわらず、こんぴらさんに関する案内が一切見られない点です。人数でいえば金毘羅詣が圧倒的多数だったはずです。それでも刻まれている情報は、あくまで遍路と弥谷寺なので、施主の意図は四国八十八ヶ所霊場を巡る人々、あるいは特定の信仰動線に向けられていた可能性が見えてきます。
金毘羅詣の大通りに立ちながら、あえて遍路道を示す標石には建立者の強い意思が感じられます。
※この標石の近くにある金毘羅詣向けの大型標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【香川県多度津町】金刀比羅宮と港町・多度津を結んだことを表す大型標石
【「多度津駅近くの遍路石」 地図】










