【22番札所平等寺境内】弘法大師ゆかりの白水霊場にある伊藤萬蔵寄進の中務茂兵衛標石

弘法大師ゆかりの白水の井戸がある22番札所平等寺境内に、伊藤萬蔵氏と中務茂兵衛氏という明治時代前後の標石界の巨頭二氏の名前が刻まれた標石がのこされています。記載内容から別の場所から移設されたものだと推察します。

スポンサーリンク

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石

22番札所平等寺境内にあるこちらの標石は、以前に施主の伊藤萬蔵氏の話題で紹介しましたが、中務茂兵衛標石として各面の紹介をしておりませんでしたので、再取材の上、標石各面をみていきます。

※伊藤萬蔵氏については、以下リンクの紹介記事をご参照ください。

【伊藤萬蔵】全国の社寺に広く寄進を行った人物のおはなし

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

22番札所平等寺の「白水伝説」

22番札所平等寺_山門

厄除けの寺院として信仰を集める22番札所平等寺には、山門に掲げられている山号「白水山」の名の通り、境内には弘法大師由来の水が湧く井戸が存在します。

お大師様が当地を訪れた際、住民らは水に困っていた。そこでお大師様が地面を杖で突いたところ清らかな水が湧出したと伝わります。

22番札所平等寺_白水井戸

弘法大師由来の白水は本堂に向かう階段脇にあり、万病に霊験あらたかと伝わります。

白水(はくすい、しろみず)とは、清く澄んだ水を称える場合や、それが転じて心に濁りが無い状態を指す比喩表現としても用いられる文言です。
22番札所平等寺では弘法大師ゆかりの霊水をいただくことができます。参拝が予定にある人は、ペットボトルなど汲んだ水を入れる容器を持参するとよろしいのではないかと思います。

 

標石の正面に表記されている内容

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石_正面

標石に表記されている内容から推察するに、元あった場所から移設されたと思われ、寺院の管理下にあるのが幸いしてか、保存状態がとても良いです。


<正面>
右(袖付き指差し)
寺王藥
尾張名古屋塩甼
滅罪生善施主伊藤萬蔵


尾張名古屋塩甼→愛知県名古屋市西区那古野1丁目付近

尾張名古屋の塩町といえば、全国各地の社寺に広く寄進を行った伊藤萬蔵(1833-1927)氏。燈篭や香炉にこちらのような標石、寄進したものの数は生涯で1,000基を超えるといわれています。

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石_正面上部

阿波23ヶ寺最後のお寺への道のりがここから始まることを告げるのが、現在の役割でしょうか。


<正面上部>
右(袖付き指差し)
寺王藥


藥王寺→23番札所薬王寺

当面の指が差す方向へ行ってしまうと、21番札所太龍寺へ逆打ちすることになってしまいます。なので標石の位置は元あった場所からこちらの22番札所平等寺境内に移設されたものと考えられます。そのこと自体は珍しいことではなく、むしろ建立当初の位置にそのままある標石の方がが珍しいように感じます。

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石_正面下部

「滅罪生善(めつざいしょうぜん)」とは、犯した罪を滅し善行を積むことを意味し、具体的には過去の過ちを懺悔し、今生で善行を積むことによって、未来に良い結果を招くことを指します。


<正面下部>
尾張名古屋塩甼
滅罪生善
施主伊藤萬蔵


若い頃は実業家として活躍していた伊藤萬蔵氏ですが、こちらの標石を建てた時の年齢は65歳(裏面の建立年度記載から)。結果的に95歳まで年齢を刻んだ伊藤萬蔵氏にとって、まだまだ人生の通過点といえる年齢ですね。萬蔵氏の寄進物は居を構えていた名古屋市を中心に見ることができるようですが、明治27年(1894)以降は四国八十八ヶ所寺院への寄進を開始したようです。

北海道と沖縄を除く全国各地の寺社で見ることができる

とさえいわれた伊藤萬蔵氏の寄進物ですが、その寄進先を記録した帳簿などは発見されていないようで、実数は今も謎に包まれたままです。

 

標石の右面に表記されている内容

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石_右面

移設に際して平等寺の方角を一致させて据え置いたのかな、という印象を受けます。


<右面>
左(袖付き指差し)
壹百六十度目為供羪建之
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教


中務茂兵衛「160度目/279度中」の四国遍路は自身54歳の時のもの。

巡拝回数160度目の標石は、国会議員を務めた鎌田三郎兵衛(1870-1934)氏が施主の標石と同時期のものになります。
※巡拝回数160度名の標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【34番札所種間寺→35番札所清瀧寺】20代で寄進した兵庫県の名士の中務茂兵衛標石

 

標石の裏面に表記されている内容

22番札所平等寺境内_伊藤萬蔵中務茂兵衛標石_裏面

通常の標石であれば建立年度の下に「建之」「吉辰」などが付きますので、こちらはよくある後年の追記なのかなあとも思いましたが、フォントが似ているのでそれはここでは違うのかなという印象です。


<裏面>

立江寺
徳島
明治三十一年二月


明治31年は西暦1898年。
同年同月に神奈川県川崎町において大師電気鉄道が開業しました。ここでの大師は神奈川県川崎市にある川崎大師こと平間寺(へいけんじ)に当たります。
開業当初は東海道五十三次2番目の川崎宿から川崎大師までの2.5kmという短距離路線でしたが、ほどなくして川崎大師参詣が民衆の間で人気になりました。輸送を担った大師電鉄の収益は当初の予想を大きく上回るほどの人気ぶりだったようです。それによって同社は各方面への路線網を拡大するための原資を得て、やがて京浜間で高速運転を行う電鉄会社に成長しました。それが現在の京浜急行電鉄(京急)です。大師線は京急の発祥路線ということになります。

一方、大師電気鉄道が民衆に変化をもたらしたこととして初詣があります。それまで初詣と言えば地元の寺社仏閣への参詣が一般的でしたが、電車の登場によって離れた土地にある有名寺社を旅行を兼ねて訪れることが可能になりました。現在に至る「正月は●●へ初詣」の習慣は、京急が根付かせたといえます。
大師電鉄の成功は全国の鉄道網形成に大きな影響を与え、後年都市部から有名寺社を目指す寺社参詣型の鉄道が全国各地で建設されることになりました。

 

22番札所平等寺の手水鉢

22番札所平等寺_手水鉢

22番札所平等寺を訪れた際には、手水鉢をぜひご覧ください。

22番札所平等寺の手口を清める清水を湛える手水鉢には、いつも生き生きとした季節の草花が浮かべられています。その美しさに心が洗われ、その清らかになった心身のままお参りすることができるのが22番札所平等寺の魅力の一つであるように思います。

※平等寺を出発してすぐの場所にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【22番札所平等寺近く】平等寺新橋を渡った先にある施主リピーターによる中務茂兵衛標石

 

標石メモ

発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★★★★
状態    ★★★★★
総評:160度目なので特別新しいわけではありませんが、石の状態がとても良い。字は完璧に判別できます。22番札所平等寺の参道脇・納経所前にあるので、当寺院を訪れたならばほぼほぼ目に入ります。おそらく他所から移設した標石だと思います。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

【「22番札所平等寺境内の中務茂兵衛標石」 地図】

四国遍路巡礼に
おすすめの納経帳

千年帳販売サイトバナー 千年帳販売サイトバナー

この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。