香川県多度津町の旧市街地近くにある大きな標石が2基のこされています。かつて、多度津港に着き金刀比羅宮を目指した金毘羅詣の旅人を導いたであろう記載内容を確認することができます。

多度津港近くに大型の標石が残されています。
標石が立っている場所

多度津港と多度津駅に近い交差点に大型の標石が立っています。
香川県仲多度郡多度津町にあるこの標石は、かつて金毘羅詣でにぎわった港町の歴史を今に伝える存在です。江戸期から明治期にかけて、海路で訪れた参詣者は多度津港に上陸し、ここから金刀比羅宮(ことひらぐう)を目指しました。その導線上に、この大きな石造道標が設置されたと考えることができます。
※金刀比羅宮に関して、オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」の以下リンクの記事で詳しく紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】香川県「金刀比羅宮(こんぴらさん)」の本宮と奥社で授与されるアート御朱印
現在の標石は多くの人にとって写真のように目に入るので、当初は特に疑うことなく「右はしくら道」と書かれた面を正面と同定して記事を書こうと考えていましたが、各面を見ていくとどうやらちょっと違うような気がしてきました。こちらの面を右面と考えて、いつも標石をご紹介する際の正面→右面→左面→裏面の順番で見ていきます。なお、当記事ではメインは写真の左の標石で、右の石は補足として紹介します。
標石の正面に表記されている内容

「すく」とは「直ぐ」のことで、現代でいうところの「真っ直ぐ」という意味になります。
<左石・左面>
すく
金刀飛ら道 ※変体仮名「飛(ひ)」
●●
●● ※施主らの氏名
石自体が大型であるため、字が大きくて彫りが深く、保存状態はきわめて良好です。刻字は明瞭で、当時の旅人にとって視認性を重視した設計であったことがわかります。
石が大きいと材料・運搬・設置どれも手間が増えるため、建設費用は増大します。各面下部に施主と思われる人物名が数多く刻まれている点から、多くの出資者が集まったことで、このような巨大な標石を設置できたのかな、と感じます。
石のバランスでいえば、「右はしくら道」となっている面を正面と同定したほうが、その裏面に建立年度が来て、よく見かける標石構成になるのですが、こちらの石の全情報の中で最も名の通った行先が「金刀比羅宮」で、こちらを通行する人々が最も必要としたであろう情報は、こんぴらさんのことかなと考えました。
標石の右面に表記されている内容

字が大きく深く刻まれ、現在の配置では右面の文字が最も目立ちます。
<左石・右面>
右
はしくら道
●●
●● ※施主らの氏名
<右石・右面>
左(指差し)
きしやば ※変体仮名「者(は)」に「゛(濁点)」
「はしくら」は、別格15番札所箸蔵寺のことです。古くから金毘羅奥之院としても知られた存在で、金毘羅大権現(現・金刀比羅宮)と両方を参拝する慣わしもありました。
こんぴらさんと箸蔵寺は同じ方向にあり、そちらへ行くにしてもこんぴらさん付近を通過するので、正面で金刀比羅宮が直進、右面で箸蔵道が右と記されているのを見ると、箸蔵寺は別の方向なのかなと思ってしまいます。その点は、正面で真っ直ぐがこんぴらさんと確認した上で、横目で右面を見ながら通過すると、箸蔵寺へは右折と考える人が少ないのかな、と感じました。
私は当時を生きた人間ではないので全てが想像の域ですが、場所的に記載内容的に、多度津港とこんぴらさんの行き来のために建てられたのがこちらの標石なのかな、と思えます。
写真の右にあるもうひとつの標石には
きしやば→汽車場
と記されていて、すなわち駅を指すものと思われますが、現在の多度津駅が位置しているのは「すぐ」の方向です(石の後方)。この指差しの方向(北)にある汽車場は通称浜多度津駅で、香川県で初めて鉄道が敷設された明治22年(1889)当時の多度津駅の位置になります。
それを指しているとしたら非常に貴重なものなのですが、別の面で大正10年(1921)の建立とあったので、大正2年(1913)に既に多度津駅は現在地に移転しています。そうとすると次に考えられることは、道路整備の際に石の向きが変わったのかな、と感じました。右の標石は薄い石板状なので、左の標石と並んで立てるためには、この向きで再設置するしかなかったのかな、とも思います。
標石の左面に表記されている内容

明治14年は西暦1881年にあたります。
<右石・左面>
明治十四年辛巳五月吉日
同年3月、ハワイ王国国王カラカウアが、10か月に亘る世界一周各国歴訪旅行のアジア最初の訪問地として日本を訪問しました。このことは、外国の国家元首が初めて訪日した事例でした。
当時のハワイは独立国で、日本の皇室との結びつきを強くして、王国存続を模索していたようです。そのため姪のカイウラニを皇室に嫁がせる提案も行われたようです。しかしながらその縁談を受けると、ハワイ併合を狙うアメリカ合衆国との関係悪化を招く恐れがあることから、縁談が成立することは無かったようです。

大正10年は西暦1921年にあたります。
<右石・左面>
大正十年四月三日演藝會建
●●
●● ※施主らの氏名
こちらの石板を建てたと考えられる「演藝會」がどのような組織かがわからないのですが、こちらの石は港や道の情報ではなく、鉄道(駅)の情報を知らせるために建てたと考えられます。
標石の裏面に表記されている内容

現代の標石の配置は当初よりやや右回転して再設置されたのかなと思えます。
<左石・裏面>
すく
ふな八
●●
●● ※施主らの氏名
ふな八→ふなば→船場(港)
正面が「金刀比羅道(こんぴらさん)」で、裏面が「ふなば(多度津港)」となっていて、本州から船に乗って上陸し、この地点を経由してこんぴらさんへ、又はその帰り道、この対になっている情報が、こちらの標石の真意なのかな、と感じました。
こちらの大きな標石は、港と街道、そして後年登場した鉄道という交通結節点の多度津町の姿を、今も力強い文字で語り続けています。
※この標石の近くにある遍路標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【香川県多度津町】「77番・へんろ道」と「弥谷寺道」と刻まれた大正4年建立の遍路標石
【「多度津港近くの大型標石群」 地図】










