阿波の難所のひとつである20番札所鶴林寺への登山口が近くなったエリアにややサイズが大きい中務茂兵衛標石が残されています。この標石は二つの奥之院の案内が表記されていることが特徴で、かつてのお遍路さんは弘法大師空海ゆかりの聖地に足を向けていたことがわかります。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<正面>
左(浮き彫り指差)
鶴林寺
二十五丁
大師座像浮き彫り
四国
第二十番
仝奥之院
標石が立っている地点は徳島県道16号沿いですが、当区間は車両危険度でいえば全遍路道中でも最も危険な区間のひとつだと思います。乗用車・大型車の往来が絶えずあるのですが歩道がありません。そしてその区間が2km弱の長距離におよびます。よって標石の観察も安全ではありません。くれぐれも事故が無いよう願いつつお進みください。
サイズが大きい石なので上下にわけて記載内容を考察していきたいと思います。
<正面上部>
左(浮き彫り指差)
鶴林寺
二十五丁
大師座像浮き彫り
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19番札所立江寺を出発して向かう次の札所である20番札所鶴林寺は、
一に焼山、二のお鶴、三のお龍
の「二のお鶴」にあげられる阿波三大遍路ころがしの一つの難所です。
しかしながら、11番藤井寺から12番焼山寺の歩き遍路道のように、その登山がすぐに始まるわけではありません。立江寺からこの標石がある場所まで10km余りの距離がありますが、その道中はほぼ車道で坂もほとんどありません。ですので、この時点では阿波三大遍路ころがしの一つは何も始まっておりません。
とはいえ、この場所まで来ると登山口はすぐ近くです。約500m先に「道の駅ひなの里かつうら」がありますが、そこが様々な意味で鶴林寺登山口となります。道の駅なので公衆トイレや営業時間内であれば食糧調達も可能ですし、近くにはコンビニもあります。補給など自身の確認を行ってから、山を越える時間の余裕を持ってご入山ください
<正面下部>
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四国
第二十番
仝奥之院
全体的な案内として鶴林寺と奥之院(※二つの奥之院を示しています。右面で後述します。)の分岐点であることを表しているのですが、時代の経過によって新しい道路ができたため、この部分が改刻されたように見受けられます。
仝は「どう」と読み、「同」と同義。すなわち、
第二十番
第二十番奥之院
ということになります。上部に鶴林寺とありその方角は変わっていないので、二ヶ寺の案内をしているのではなく、
第二十番奥之院
の一ヶ寺を指しているかもしれません。ここでの第二十番奥之院は現代の別格3番札所慈眼寺(じげんじ)のことを指していると思われます。
標石右面に表記されている内容
<右面>
右(浮き彫り指差)
奥之院へ
百丁余
四国霊場奥之院
星の岩屋へ十●
標石が建てられることが多い三叉路の分かれ又
と申し上げましたが、19番札所立江寺から向かってくるとまずは右面が目に入ります。左の道が徳島県道16号で別段用事がなければここを曲がることなく先へ進むと、ほどなくして登山口となる道の駅ひなの里かつうらに到着です。
<右面上部>
右(浮き彫り指差)
奥之院へ
百丁余
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現代の車道を経由して奥之院すなわち別格3番札所慈眼寺へはこの場所から15kmほどあります。県道を経由せず坂本から山越えを行ったとしても百丁≒11kmは短い気がします。
標石が建立された時代に慈眼寺へ真っ直線の道があったとは考えにくいので、ここでの百丁は「余り(あまり)」とついているように「10kmくらい」という概数(=大体の距離)を表しているのかなと思います。
※鶴林寺の山の麓で同じ慈眼寺を案内している標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【20番札所鶴林寺→別格3番札所慈眼寺】現代の車道登山口にある「奥之院」を示す標石
【別格3番札所慈眼寺→20番札所鶴林寺】鶴林寺への別ルート登山道を示す中務茂兵衛標石
【「別格3番札所慈眼寺」 地図】
<右面下部>
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四国霊場奥之院
星の岩屋へ十●
右面下部の奥之院はどうやら別の寺院を指しているようです。二行ある左列をよく観察すると「星の岩屋」の文字が見えます。
星の岩屋
とは星谷寺(しょうこくじ)の別名で、空海が人々に禍をもたらす悪星をこの地に引き下ろして岩屋に封じ込めた伝説に由来する寺院で、20番札所鶴林寺の奥之院でもあります。ですので右面下部の奥之院については慈眼寺ではなく星谷寺(星の岩屋)のことを指していると思われます。
Q:奥之院って複数存在する場合があるのですか?
A:あります。
奥之院とはその札所の開基、もしくは由来になった場所で、それが複数の地で興っていた場合は奥之院が複数存在することになります。また開基はその寺院に由来しなかったとしても、例えば火災に遭い復興のために合併した場合などは、直系傍系でいえば後者ではありますがその寺院も源流の一つに加わることになります(例:別格14番札所椿堂常福寺)。
星の岩屋は現在無住で、納経は20番札所鶴林寺で受けることができます。谷間にある境内には滝が流れていて、その内部から眺めることができることから「裏見の滝(うらみのたき)」の名があります。
距離は標石にある十丁よりは遠い気がしますが、それより星の岩屋の標高が200mほどあるのでこの場所からは山道を上がることになるので、楽な道のりではありません。車道が通っていて自動車で行くこともできますが、道幅が広くはないのでその点での注意も必要です。
現代の慈眼寺への道順でいえば、ここで標石が指す方向へ曲がることなく徳島県道16号を進んで横瀬橋で勝浦川を渡るルートが無駄がないですが、当時はその箇所に橋が架かっていなかったことが考えられます。逆にこの付近に橋があった、もしくは川幅や水流の関係で渡し舟での行き来が容易な箇所だったということなのかもしれません。現代の感覚でいえばここで曲がって奥之院へ向かうのは距離損になりますが、慈眼寺・星の岩屋どちらの奥之院に行くにしろ当時はこの付近で勝浦川を渡るしか方法はなかったのかもしれません。
【「星の岩屋(星谷寺)」 地図】
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
明治三十七年七月吉辰
地主中角村大西●
世話人ぬえ村●
明治37年は西暦1904年。同年2月10日に日露両国が宣戦布告を行い日露戦争が始まりました(~1905年9月まで)。事の発端は朝鮮半島や満州の利権を巡ってのものなので日本本土は戦場にはなっておりませんが、標石が建てられたこの時代には対外戦争が行われておりました。
ここまで見てきてこちらの標石には中務茂兵衛の情報がありません。ですので中務茂兵衛標石かどうか同定しかねる部分はありますが、石の形態や情報の展開がとても似ているので茂兵衛さんのものと仮定しました。
建立年度から中務茂兵衛60歳。200度前後の巡拝回数になります。
標石メモ
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★☆☆☆
状態 ★★☆☆☆
総評:遍路道沿いにあって見つけ易い。石の状態は白化が目立ち文字判別が困難。交通量が多く石を眺める・写真を撮るいずれにしろ落ち着いて行うことができないので、その点が判別の難しさに拍車をかけるともいえます。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
※この標石から20番札所鶴林寺方面に進んだ先の登山口にある標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【20番札所鶴林寺登山口】愛知県の珍しい地名が記された札所距離が正確な標石
【「二つの奥之院が案内されている中務茂兵衛標石」 地図】