34番札所種間寺を出たお遍路さんは、一車線前後の車道を経由しながら次の35番札所清滝寺を目指します。道中の春野エリアには水路がたくさんはり巡らされていて、水路のすぐ横に中務茂兵衛標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
左右(指差し)
清瀧寺
種間寺
清瀧寺→35番札所清滝寺(きよたきじ)
種間寺→34番札所種間寺(たねまじ)
春野といえば「土佐のデンマーク」と称されるほど、水路が発達している街。この標石の少し34番札所種間寺寄りの標石も、こちらの標石も、そばに用水路があります。
※34番札所種間寺寄りにある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【34番札所種間寺→35番札所清瀧寺】20代で寄進した兵庫県の名士の中務茂兵衛標石
<正面下部>
為先祖代々菩提也
大阪市南區順慶町通
松下讃松社印刷所
三廻目建之
施主 松下●●
大阪市南區順慶町通(おおさかしみなみくじゅんけいまちどおり)→現・大阪市中央区南船場(おおさかしちゅうおうくみなみせんば)
「順慶」は、この地に豊臣秀吉恩顧の戦国武将「筒井順慶(つついじゅんけい/1549-1584)」の屋敷があったことに由来。そこで印刷業を営む人物による寄進のようですが、「順慶町」「松下」の記載は41番札所龍光寺(りゅうこうじ)の参道口にある石でも見ることができます。「三廻目」となっているのでそのうちの二本目がこちら春野町にあるということになります。少なくともまだあと1基がどこかに存在するわけで、その登場が楽しみです。
【41番札所龍光寺鳥居前】鳥居前に残された中務茂兵衛巡拝後期の標石
会社名の「讃」「松」は「讃岐」「高松」に由来するものでしょうか。同社は現在も南船場で事業を行われているようです。
標石の右面に表記されている内容
<右面>
大正三年八月吉旦
旅うれしたゞ一筋に法の道 義教
大正3年は西暦1914年。同年6月に発生したオーストリア皇太子暗殺(サラエボ事件)に端を発して、7月にはオーストリアがセルビアに宣戦布告する形で第一次世界大戦が始まりました。日本は標石が建てられたのと同年同月の23日に日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告する形で参戦。中国にあるドイツ領山東省(さんとうしょう)に進軍。短期間のうちに勝利をおさめました。この時日本に連行された俘虜(ふりょ)たちの話は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初演される話に繋がります。
※ドイツ人俘虜のエピソードは、徳島県鳴門市に残っており、以下リンクの佐藤崇裕さんの記事で紹介されています。
【道の駅第九の里】不揃いなうどんの不思議な食感とやさしい出汁の鳴門名物「鳴ちゅる」
こちらの標石には添句が入っています。「ただ一筋に法の道」を歩き続けた中務茂兵衛。その晩年の作となります。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
弐百五十六度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主 中司茂兵衛●●
中務茂兵衛「256度目/279度中」の四国遍路は自身70歳の時のもの。結果的に大正11年(1922)2月にその生涯を終える茂兵衛さんですが、残り7年半で23回。年平均にすると3回強。4ヶ月で四国八十八ヶ所を一周していることになります。全盛期に倍の速さで回っていたことを考えるとそのペースは落ちている印象ですが、70代という年齢を考えると歩き続けることが驚異的なように思います。
【「水路がはり巡らされている春野の中務茂兵衛標石」 地図】