88番札所大窪寺、それから奥の院與田寺と来て徳島県へ向かうお遍路さんが通るこの場所は、かつて風待ち潮待ちを行う船の入出港で賑わった「引田」。港町であり県境の街でもあるその街への入口に、中務茂兵衛の標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の立っている場所
市町村合併によって現在東かがわ市となっている引田(ひけた)。街の西側にある城山が、強い北西風から護ってくれる天然の良港で、古くから風待ち・潮待ちで停泊する船の入出港で街が大いに賑わいました。その繁栄は家々に飾られる豪華な雛人形などに見ることができます。また讃岐和三盆糖の生産や養殖漁業発祥地としても知られています。
地理的には徳島県・香川県の県境である大坂峠(おおさかとうげ)西方に位置している県境の街。古くは源平合戦の際に屋島へ向かう義経弁慶の軍勢が通った峠であり、現在は阿波國を目指すお遍路さんが態勢を整えて出発する登山口のような側面を持った街でもあります。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
右
第三番
金泉寺
<右面上部>
左
大窪寺
金毘羅
前述の大坂峠を越えて下山すると、3番札所金泉寺(こんせんじ)がある板野町。
第1番・2番・3番…
と歩みを進めたお遍路さんであれば、大坂峠を越えて金泉寺に来たところで自らの歩みが四国一周したことになります。
(右面については後述)
尾張名古屋市裏塩町
施主
津田久●
妻●●
「名古屋」「塩町」と来たら「伊藤萬蔵(いとうまんぞう)」氏かと思いましたが、別人でした。ご夫婦の連名でご寄進されています。
刻まれている「裏塩町(うらしおまち)」は萬蔵さんの拠点「塩町」に隣接する地域。塩町の裏(西側)に位置していることが由来。現在の名古屋市西区那古野1丁目付近。「那古野」は「なごの」と読み、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう、羽柴秀吉→豊臣秀吉)生誕の地とされる。時代によっては「なごや」と読んでいた時代もあるようです。
※伊藤萬蔵については、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。
標石右面に表記されている内容
<右面上部>
左
大窪寺
金毘羅
「一生に一度はこんぴらまいり」
金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん、現金刀比羅宮、こんぴらさん)は江戸時代から全国的に知られる存在。四国の主要街道は必ず金毘羅へ繋がっている、といわれたほど。街道沿いには金毘羅街道を表す常夜灯等が各地に建立されましたが、こちらの標石もその一つということになります。
<右面下部>
臺百六十五度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中司茂兵衛義教
中務茂兵衛165度目の四国遍路は自身54歳の時になります。
標石の左面に表記されている内容
明治三十一年十一月吉辰
當村世話人●●
明治31年は西暦1898年。
同年同月8日には島根県美保関(みほのせき)に、山陰初の石造灯台として「地蔵埼燈台(じぞうざきとうだい)」が点灯しました。地蔵崎の名称が全国に多く存在することから、昭和10年(1935)に現在の名称である美保関燈台(みほのせきとうだい)に改称されています。
歴史的価値が高い白亜の灯台は「日本の灯台50選」に選ばれている事はもちろん、「世界灯台100選」にも同県の出雲日御碕灯台と共に選出されています。
こちら引田にある標石は、
発起人…中務茂兵衛
施主…名古屋市のご夫婦
世話人…當村(引田)の方々
様々な方々が尽力したことで建てられた標石と見て取ることができます。
この時代の引田の港町は、前述のように瀬戸内海を行き交う船たちが風待ち・潮待ちを行う重要港湾。後年昭和3年(1928)には世界で初めてハマチの養殖に成功して、街はますます発展。こちらの標石が建てられた時代は、街が相当賑わっていたのではないかと想像することができます。
他と比べてもやや大きな標石であることも、街の豊かさを表すエピソードの一つなように思います。
【「引田の街並み入口の中務茂兵衛標石」 地図】