高知県の足摺岬にある38番札所金剛福寺。はてしない道のりを経て到達するお寺の門前には、その後の進路を示す古い標石が残されています。
37番札所岩本寺から約90kmという長い道のりを歩いて到着する、足摺山こと38番札所金剛福寺。バスツアーや自家用車で来ても遠いこの場所。歩き遍路でこの山門をくぐる時の心境は、その距離を歩き通した者だけが実感することができる、特別な達成感があります。
—– こちらの記事に登場する主な単語の読み
第37番岩本寺(だい37ばんいわもとじ)
第38番金剛福寺(だい38ばんこんごうふくじ)
補陀落東門(ほだらくとうもん)
寺山(てらやま)
第39番延光寺(だい39ばんえんこうじ)
豫州越智郡(よしゅうおちぐん)
月山神社(つきやまじんじゃ)
篠山神社(ささやまじんじゃ)
—– こちらの記事に登場する主な登場人物
武田徳右衛門(たけだとくえもん / ?~1814) … 伊豫國越智郡朝倉村(現在の今治市)生まれ。寛政6年(1794)から文化4年(1807)にかけて四国各地に標石を建立した。
門前に並んで立つ、三基の標石
山門へ続く参道の左側に並べられた、新旧三本の標石。地面が舗装されているので、前面の二本は建てられた時は若干異なる場所にあったのかもしれません。
寺山とは39番札所延光寺の別名。「延光寺」と正式名称で表記されるようになった 年月はわからないが、江戸時代の標石・書物にはその殆どが "寺山" として登場します。
彫られている里程をkmに換算すると約48km。さすがにそこまで近くはありません。川に橋、峠にトンネルが無かったこの時代なら猶更です。
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武田徳右衛門による標石
願主
豫州越智郡
●●徳右衛門
18世紀後半~19世紀始め(江戸時代後期)に建てられたものです。
愛媛県西条市の石鎚山中腹にある60番札所横峰寺に登る前にある妙雲寺の前に残されている徳右衛門氏の標石と同様、彼の建てた標石に記された距離は実距離とは異なる場合が多い。
※妙雲寺門前の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。
【60番札所横峰寺への遍路道】新旧遍路石から見えてくる古の遍路道事情
その理由は、
□ 測量技術が未発達だった
□ 札所等が現在と異なる場所にあった
□ 他に近道があった
□ アバウトな性格だった
等、色々と考察することができます。とは言え、先人の偉業には変わりなく、このような "先達" が居てこそ、四国八十八ヶ所の遍路道が守られてきたことは疑いようがありません。
従是寺山●打戻十三里
月山へ九リ
こちらの標石は、寺山(39番延光寺)への距離は実距離により近くなっている事と、月山の表記があります。
「月山」とは、番外札所・月山神社の事。足摺岬の西海岸に位置、かつての四国遍路はこの月山神社か篠山神社のどちらかを必ず参拝しないといけない不文律(暗黙のルール)があったそうです。
とは言え、篠山が早くから開けていたのに対して、足摺西海岸を通過する月山方面への道は「見残し」と呼ばれる、空海さんでさえ見ることができなかったことに由来する地名があります。
現代の標石
三原経由… 打ち戻って三原村を経由する最短ルート
月山経由… 足摺西海岸を通って月山神社を経由するルート
1日分近く距離が変わるので、歩き遍路としては打戻の残念感はありつつも、前者を選択する方が多いのが実情です。
願いが叶う草かんむり
38番金剛福寺山門柱に掲げられている、本尊名を表した木札。
よく見ると「菩」の字の金箔が剥がれて黒くなっています。
部首「草かんむり」が繋がっていないことによりご利益が残っている…
→願い事が叶う
と噂になり、そこを撫でる参拝者が後を絶たないとの事。
足摺岬へ来ることなんて一生で何度あるかどうか。
そのような場所なので、せっかくここまで来たのなら、やらないよりは試してみる方がいいと思います。迷信かもしれませんが、「菩」の字を撫でてみましょう。
※38番札所金剛福寺がある足摺岬・土佐清水市ゆかりの偉人「ジョン万次郎」に関する以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【38番札所金剛福寺→39番札所延光寺】ジョン万次郎の生家がある中浜集落
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【38番札所】 | 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺(さださん ふだらくいん こんごうふくじ) |
宗派: | 真言宗豊山派 |
本尊: | 三面千手観世音菩薩 |
真言: | おん ばざらたらま きりく |
開基: | 弘法大師 |
住所: | 高知県土佐清水市足摺岬214-1 |
電話: | 0880-88-0038 |