38番札所金剛福寺がある四国最南端・足摺岬には、この地出身の偉人「ジョン万次郎」の銅像が立っています。その偉業と金剛福寺の関係を紐解いてみることにします。
四国最南端・足摺岬。
断崖絶壁の上に立つ白亜の灯台に、押し寄せる荒波。見渡す限り何も見えない水平線。この海の先、初めて現れる陸地(真南の方角)はインドネシア領のニューギニア島。
この場所は、太平洋を巡り巡った黒潮が、最初に出会う陸地でもあります。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
足摺岬(あしずりみさき)
幡多郡(はたぐん)
中浜村(なかのはまむら)
鳥島(とりしま)
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
第38番金剛福寺(だい38ばんこんごうふくじ)
千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんがんかんぜおんぼさつ)
—– こちらの記事に登場する人物
中浜万次郎・ジョン万次郎(なかはままんじろう・じょんまんじろう / 1827~1898)… 下記参照
足摺岬出身の偉人のお話
この地方出身の偉人であるジョン万次郎(中濱萬次郎)。
土佐國幡多郡中濱村(現・高知県土佐清水市中浜)生まれの万次郎は、幼い頃に父親を亡くし、天保12年(1841) 出稼ぎで出漁中に嵐に遭い、伊豆諸島の鳥島に流れ着いて漂流生活を送ることとなった。
漂流生活から143日後、鳥島にアメリカの捕鯨船が通りがかり、万次郎たちは救助された。
当時の日本は鎖国にあって帰国すること自体が困難なため、一旦ハワイへ向かう。他の仲間はそこで下りることとなったが、船長であるホイットフィールドに非常に気に入られていた万次郎こと JohnMung(ジョンマン)だけはアメリカ本土に渡航、船長の養子となって学校へ行かせてもらい、航海術を学んだ。
嘉永3年(1850)頃、帰国を決意。
ゴールドラッシュで湧いていたサンフランシスコの金鉱で働き、帰国のための資金を得てからホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と合流。上海行きの商船に購入した小舟 "アドベンチャー号" を載せ、琉球に上陸。薩摩→長崎奉行所→土佐と移送され、嘉永5年(1852)、帰国から1年半後・漂流から11年の時を経て故郷の中浜に戻り、母との再会を果たした。
しかし、時代は万次郎に平穏な生活を許さず、すぐさま幕府から招聘の声が掛かる。直参の旗本に取り立てられ、マシューペリー来航にあたり通訳として着任(その後、スパイの嫌疑により解任)。日米和親条約締結に影ながら貢献した。
その後も小笠原諸島の探検、遣米使節団、明治になってからは新政府により英語教授に任命されるなど、日本人として初めてアメリカ本土の地を踏んだ万次郎の才能は、日本の近代化に大きく貢献をした。
明治31年(1898)、波乱万丈に満ちた72歳の生涯を閉じた。
金剛福寺とジョン万次郎
万次郎像の後ろには四国八十八ヶ所霊場38番札所金剛福寺の多宝塔が見える。
祀られている本尊は 千手千眼観世音菩薩。
観音さまは航海安全にご利益ありの仏様。土地・職業柄、万次郎さんが金剛福寺にお参りに訪れていたとしても、何ら不思議なことではありません。
一度は漁の最中に遭難という憂き目に遭っているものの、その後運良く救助され、その時代に誰も見聞きしたことのない技能・知識・経験を得て、無事に帰国することができた。そしてそれが開国間近の日本が最も必要としていた情報であり、彼は罪に問われることはなかった。
諸々の経緯を考えると、不幸を覆すほど幸運が多く、それは金剛福寺の観音さまのご利益だったのかもしれませんね。
※以下リンクの記事で、第38番金剛福寺から西海岸の遍路道を進んだ先のジョン万次郎の生誕地をご紹介しています。
【38番札所金剛福寺→39番札所延光寺】ジョン万次郎の生家がある中浜集落
※同じく漂流者の「無人島長平」に関する以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【「ジョン万次郎 銅像」地図】