四国高松の殿様といえば、現在の栗林公園を整備した松平家が広く知られています。それ以前はどうだったのでしょうか。戦国の世に讃岐國を治めていたお殿様「生駒氏」のゆかりの寺院が高松市市街地にあります。
弘憲寺の所在地
弘憲寺(こうけんじ)は旧来からの高松市街地に位置しています。四国八十八ヶ所の札所でいえば、
82番札所根香寺(ねごろじ)
83番札所一宮寺(いちのみやじ)
84番札所屋島寺(やしまじ)
これらの三札所の中間に位置するような形。というのもこれらの札所の順路が、
根香寺
↓南東
一宮寺
↓北東
屋島寺
と地図上では逆三角形を描くように進行するので、その北端に位置する弘憲寺がある高松市街地エリアを見事に避ける形になっているため。まるで市街地をお遍路さんが通行するのを忌み嫌うかのような順路は諸説あるところですが、その一つとして江戸時代に高松を治めた松平氏がお遍路さんと住民を接触させないためというお遍路さん締め出し説が存在します。
というわけで歩き遍路道中で立ち寄る…というにはその遍路道沿いに位置していないため遠回りになってしまいますが、四国の玄関口である高松駅からは徒歩圏内。公共交通機関で高松市街地に到着したときや、お遍路途中に高松市街地で宿泊する際には、ぜひ訪れてみてもらいたい寺院です。
弘憲寺のみどころ
境内案内図に見所が数多く紹介されていますが、
平和塔→高さ16m。石造りの五重塔としては国内最大
宥遍上人試力石(ゆうへんしょうにんしりきいし)
生駒親正御夫妻墓所(いこまちかまさごふさいぼしょ)
など
墓所として祀られている生駒氏が、江戸時代に松平氏の支配になるまで讃岐國を治めていた大名であり、その初代藩主が親正という人物になります。
生駒氏については本記事の後編で詳しく触れるとして、まずは本堂へ向かいたいと思います。
寺名の由来と讃岐國の力比べ
寺の起源は天平年間(てんぴょうねんかん/729-749)に現在の丸亀市飯山町下法軍寺(まるがめしはんざんちょうしもほうぐんじ)に建てられた法勲寺(ほうくんじ)に由来。鎌倉時代に廃寺になっていた同寺を初代藩主・生駒親正(いこまちかまさ/1526-1603)が再建。親正公の死後、息子であり二代藩主・生駒一正(いこまかずまさ/1555-1610)が、墓所があるこの地に法勲寺を移転させた上で親正公の戒名をとって「弘憲寺」と改称したもの。現在は高野山真言宗に属する寺院で、本堂には不動明王が祀られています。
本堂に向かって右側に観音像、左側に丸い石が置かれていますが、
ある日、上人さまの怪力の噂を聞きつけた魔物がその力を試そうとして境内にこの石を投げ込んだところ、これを瞬時に魔物に向かって投げ返したそうです。
そのことから大きな力にご利益ありとされ、反対側にある観音さまにお参りした後でこの試力石に触れると大きな力を授かることができるとされます。
こちらがその観音さま。先にこちらをお参りさせていただいて、
宥遍上人試力石に触れると大きなお力を授かることができるそうです。
香川県では義務教育における武道の授業に選択制で相撲が導入されている学校があるなど、昔から余興などで力比べを行う風習がある土地柄。力比べの催しは87番札所長尾寺(ながおじ)で毎年1月に行われている長尾寺大会陽(ながおじおおえよう、力餅運搬競技)がその代表的なもの。力持ちを憧れとする想いがこのような伝説を生んだのかなと考えられます。
※2021年は新型コロナウイルスの感染拡大により中止になりました。
宥遍上人の怪力伝説は讃岐國中に及んでいて、法勲寺とゆかりある島田寺(しまだじ、丸亀市飯山町下法軍寺)には、高松城に門を建てたところ次々に怪奇事件が起こり撤去することになったものを、宥遍上人が軽くひと担ぎして運んできたとされる「宥遍上人一担門(ゆうへんしょうにんひとかつぎのもん)」が伝わっています。
※弘憲寺のご紹介は、以下リンクの記事に続きます。
【「弘憲寺」 地図】