期せずして米国日本人留学生第一号になった「ジョン万次郎(中浜万次郎)」。38番札所金剛福寺から打ち戻らずに西へ進むと、彼が生まれた集落である「中浜」があり、生家跡などジョン万次郎の遺跡や功績を見ることができます。
※ジョン万次郎の来歴や功績に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
足摺岬(あしずりみさき)
幡多郡(はたぐん)
中浜村(なかのはまむら)
第38番金剛福寺(だい38ばんこんごうふくじ)
第39番延光寺(だい39ばんえんこうじ)
三原村(みはらむら)
大月町(おおつきちょう)
土佐清水市(とさしみずし)
—– こちらの記事に登場する人物
中浜万次郎・ジョン万次郎(なかはままんじろう・じょんまんじろう / 1827~1898)… 本記事、前記事参照
足摺岬周辺の遍路道
足摺岬・38番札所金剛福寺を打ち、次に39番札所延光寺へ向かうルートは複数存在する。
□ 来た道をそっくり帰り三原村を通るルート
■ 土佐清水市街から大月町を経由して宿毛に出る西海岸ルート
大きく分けるとこの2つ。これを基本線として、それぞれ更に複数ルートが存在する。
金剛福寺を打った後、来た道を戻らず土佐清水市街地を目指した場合、途中で通りがかるのが中浜の集落です。
※ この時点ではまだ□■両ルートを選ぶことが出来ます。
万次郎の生家がある中浜集落
中浜にある万次郎の生家。
史実をもとに復元された住居。
中浜家の家財など、当時の漁家の暮らしが再現されている。
万次郎の生涯年表や、エピソード等が紹介されています。
貧しい漁師の家に生まれ 幼い頃に父親を亡くして働きに出ることになった万次郎。寺子屋に通う余裕がなかったため、日本語を聞く・話すことはできても、読んだり書いたりすることはできなかった。
そのため、日本に帰国が叶って幕府に抑留されている時は、日本語未教育の身であり 海外生活が長かったこともあって日本語が話せず、それによって取り調べの日数が長くなったとも言われる。
口語の通訳としては非常に有能な万次郎も、英語・海外体験を日本語に文章化することは苦手であった。また外国に精通していたことから、たびたびスパイ疑惑が浮上。役職を辞任するようなことは何度もあった。
それらの事情があり、数々の貴重な体験を披露する機会に恵まれなかったのが非常に惜しまれる。
中浜を紹介した遍路道案内
中浜集落は、鰹節工場の匂いが漂う小さな漁村。中浜を通り、当地の偉人に触れてみてはいかがでしょうか。
【「ジョン万次郎 生家跡」地図】