江戸時代の徳島藩には旅人に宿泊の便宜を図る「駅路寺」という独自の制度があり、阿波五街道全部で八か所のお寺が指定されていました。その駅路寺の一つである長谷寺とお寺の横に鎮座する金刀比羅神社を訪れました。
中央構造線の真上を走る撫養街道
撫養(むや)街道は、撫養港と阿波國内陸部をつなぐ交易路として栄えた歴史を持ちます。
※交易路としての歴史は、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。
撫養街道はもう一つの側面として”中央構造線上を通る街道”という面があるのですが、その中央構造線断層のずれが阿讃山脈を形成し、撫養街道の一部に”山裾の道”という独特の景観を作り上げています。
このあたりにも店舗がぽつぽつ点在しており、住宅地というより商いの匂いを感じさせる道です。妻入りの家の背後に山が迫る、趣ある街並みが続きます。
駅路寺と長谷寺
撫養街道を1番札所に向けて自転車を走らせ、木津(きづ)に差し掛かると、長谷寺という寺が見えてきます。
奈良の有名な「長谷寺」は「はせでら」と読みますが、ここのお寺は「ちょうこくじ」と読みます。
読み方は違いますが、両寺にはつながりがあり、奈良の長谷寺から授けられた観音像を祀り、船戸左衛門尉次正によって創建されたのがお寺の始まりだそうです。
この長谷寺は江戸時代より旅人の宿泊の便宜を図る「駅路寺(えきろじ)」に指定された寺で、1番札所を目指すお遍路さんの多くを受け入れてきた寺でした。
駅路寺とは、徳島藩祖の蜂須賀家政が藩内の主要な街道沿いに設置した旅人の難渋を救うための寺で、撫養街道を含む阿波五街道に全部で八か所の寺が指定されています。
このように旅人の保護を図る一方、利用者の中に盗賊や不審者がいないか監視し、悪事の企てがあれば然るべき機関へ通報するといった秘密警察的な役割を担っていたといわれています。駅路寺は四国巡礼や旅人を保護する養護院的な場所であるとともに治安維持の要所として機能し、駅路寺に指定された寺には藩から禄10石を与えられていました。
長谷寺ホームページ http://www2u.biglobe.ne.jp/~chokuma/index.htm
「鳴門のこんぴらさん」こと「金刀比羅神社」
この長谷寺のすぐ隣には、金刀比羅(ことひら)神社があります。
神宮庁ホームページによると1601年の創建で、香川の金刀比羅宮(ことひらぐう)より勧請されたと伝えられるとのこと。明治の神仏分離令によって分離される前は、隣の長谷寺と一体の寺社でした。
香川県にある金刀比羅宮は階段が多い神社として有名ですが、この金刀比羅神社の鳥居の奥にも長い階段が見えます。ちょっと興味がひかれたので登ってみることにしました。
長谷寺と金刀比羅神社から見えるもの
長谷寺が建立された戦国時代は、この周辺は海で、かつてこの場所が四国の玄関口でした。
「木津(きづ)」は「川津(かわづ)」から変化した地名で、川と海とが交わる河口部をさしていたとされています。江戸時代にこの木津から海により近い岡崎(現在の岡崎港)に港が移されると、小鳴門海峡に面した岡崎が四国の主要な玄関口となっていきました。
ちなみに金刀比羅神社は海上安全の神様とされており、海運業に縁の深い土地であることを示しているように思いました。
参考:阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第34号 https://library.tokushima-ec.ed.jp//digital/webkiyou/34/3418.html
四国へと入って来た旅人の難渋を救うための駅路寺・長谷寺、航海安全祈願の場であった金刀比羅神社。撫養街道の歴史が凝縮されたような二つの寺社には、撫養街道の歴史の匂いが今でも色濃く残っています。
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お遍路さん上陸の地である撫養港から一番札所まで、撫養街道を自転車でたどる「撫養街道-自転車散歩」の全行程は下記の記事にまとめてあります。ぜひご覧下さい。
【「長谷寺」 地図】