非業の死をとげた崇徳上皇は讃岐の地で荼毘にふされます。 その後、様々な怨霊伝説がうまれることになりますが、自分を篤くもてなしてくれた讃岐の人たちには、怨霊となってからも情を注いで、常に守っていると考えられています。
「血の宮」と「煙の宮」
讃岐國に配流となり非業の死をとげた崇徳上皇、配流になった経緯や流刑生活の様子は、以下リンクの記事をご参照ください。
【81番札所白峯寺と79番札所天皇寺】2寺を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン-讃岐配流と非業の死編
崇徳上皇の崩御後、都に派遣された使者は、白峰山に葬れとの勅命をもたらしました。 すぐさま崇徳上皇の遺体は殯棺に収められて白峰山に向かいます。
山裾の高屋の阿気(たかやのあけ)というところに差し掛かると、一天にわかにかき曇り、激しい雷雨となりました。 葬列は停止し、棺は石の上に下ろされました。 すると、その棺の底から血が流れ出し石を染めました。 その血は、あたかも今亡くなったばかりの人から流れだしたように鮮やかでした。 葬列に加わった人たちは、崇徳上皇は怒りのために死にきれず、今ここで亡くなったのだと思い、血に染まった石をご神体として社殿に納め、ここを「血の宮」と呼ぶようになりました。
【「血の宮(高家神社)」 地図】
雷雨が過ぎ去った後、上皇の遺体は白峰山頂に運ばれ、岩の上で荼毘にふされました。 その煙は、意志を持つかのように、都の方に向かってたなびき、峰を連ねた稚児ケ岳の麓に籠ったとされます。 里人は崇徳上皇の想いを汲んで、そこに宮を建てました。 ここは「煙の宮」と呼ばれるようになります。
由来からするとおどろおどろしい場所のような印象がありますが、「血の宮」、「煙の宮」ともども、今でもきれいに掃き清められ、地元の人の心遣いが感じられます。
【「煙の宮(青海神社)」 地図】
崇徳上皇の怨霊伝説
崇徳上皇崩御の後、都では動乱が相次ぎ、譲位して上皇になっていた後白河上皇の周辺では側近の死が相次ぎました。 さらに後白河上皇自身が重い病を患い、これを崇徳上皇の祟りだと悩みます。 そこで、それまで「讃岐院」としていた院号を「崇徳院」と改め、地元の人たちが崇徳上皇の御陵の隣に建てた頓証寺(現在の81番札所白峯寺)に寄進するなどして、必死で崇徳上皇の怨霊をなだめようとします。
頓証寺には、為義、為朝の親子と、天狗の相模坊が合祀されています。 為義と為朝は崇徳上皇が最後まで信頼した側近であり、相模坊は、金比羅の金光坊と八栗山の中条坊とともに「讃岐の三天狗」といわれた眷属ですが、実際は白峰山を本拠にする修験僧だったのでしょう。 崇徳上皇が讃岐にやってきたときから側に仕え、その寂寥をなぐさめていたと伝えられています。
後に平清盛が狂死したのも崇徳上皇の祟りだと噂され、さらに平家が壇ノ浦に滅んだのも崇徳上皇の祟りによるものだと噂されました。
その後、世が乱れる度に、朝廷では崇徳上皇の祟りと恐れるようになりました。
いっぽう、四国では朝廷とはまったく逆に、崇徳上皇を守り神と考える信仰が伝わっています。 和歌を嗜み、繊細かつ厚い情の持ち主であった崇徳上皇は、西行とも親交がありました。 西行は崇徳上皇が亡くなった3年後、白峯の御陵を訪れて、亡き帝を偲びながら「よしや君昔の玉の床とても、かからんのちは何にかはせん」という歌を詠みました。 その西行が辿った崇徳上皇巡礼の道は今も「西行の道」として伝えられています。
崇徳上皇は、自分を篤くもてなしてくれた讃岐の人たちには、怨霊となってからも情を注いで、常に守っていると考えられています。
【「頓証寺殿」 地図】
讃岐國の崇徳上皇ゆかりの地のレイライン的観点による分析は、以下リンクの記事に続きます。
【81番札所白峯寺と79番札所天皇寺】2寺を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン-ゆかりの地とレイライン編
四国遍路情報サイト「四国遍路」を運営する株式会社四国遍路では、聖地観光研究所の内田一成氏と共同で、崇徳上皇に関連するレイラインを現地フィールドワークを通してご紹介するツアープランをご提供しています。
ツアーの様子を撮影した以下動画をぜひご覧ください。ツアーの詳細情報は以下リンクのページに掲載しています。