愛媛県愛南町の遍路道沿いに「札掛」という地名が存在します。札とはお遍路さんの名刺である納札のことをさし、番外霊場・篠山神社の参拝方法・ルートと関係しています。
愛南町のバス交通事情
愛媛県南宇和郡愛南町は、平成16年(2004)10月に一本松町・内海村・城辺町・西海町・御荘町が合併し発足した自治体です。
その中心が旧城辺町になります。城辺は「じょうへん」と読みます。かつて同じ城辺町と書いて「ぐすくべちょう」と読む自治体が沖縄県宮古島にありましたが、そちらは平成17年(2005)10月に合併して宮古島市の一部になり、現在「城辺町」を名乗る自治体は存在しません。
愛媛県の旧城辺町の区域には鉄道は通っていませんが、愛南町役場や南宇和病院、公共交通機関で愛南町を訪れる際に都市間路線バスが発着する城辺バスターミナルなど、公共の施設が多く存在します。愛媛県都である松山市からは約130km離れていますが、そこからバス利用で乗り換えなしで訪れることも可能なので、四国八十八ヶ所霊場まいりの区切り打ちにも活用することができます。県を越えて高知県宿毛市への路線バスも不便のない便数が発着しています。
とはいえ都市からやってくる路線バスが経由するのは幹線道路なので、町内を隅々まで網羅しているのはコミュニティバスです。そのような枝線は愛南町運営の「あいなんバス」が担っています。
現代でお遍路さんがこちらの札掛停留所を利用することがあるとすれば、
①区切り打ちで当回を終える、もしくは、前回終えた場所に戻ってきて再スタート
②40番札所観自在寺の参拝を終えた後、この場所まで来て篠山神社一の鳥居から篠山神社を目指す
③40番札所観自在寺の参拝を終えた後、篠山神社一の鳥居であるこの場所を車窓に見ながら終点の御在所まで乗車して、登山口である二の鳥居から篠山神社を目指す
このような感じで利用されていることと思います。
※番外霊場・篠山神社に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
札掛の由来
札とはお遍路さんにとって名刺に相当する納札(おさめふだ)のことで、それを掛けたのがこの場所、という意味にとれます。掛けるは打つと同義と思われます。
四国遍路で札所を巡拝することを「打つ」と言いますが、紙が普及する以前に物事を書き留めるものは木製の板であり、お遍路さんも例外ではありませんでした。近代以前のお遍路さんは、参拝時に木製の納札を札所寺院の柱などに打ち付けていたことから、四国八十八ヶ所を巡拝することを打つと呼ぶようになったとされます。「順打ち」「逆打ち」「打ち戻り」「区切り打ち」などの巡礼の仕方を表す言葉にも打つが使われます。
この地方では対象物に札を打つ動作のことを掛けると呼ぶのかというと、さすがにそれは違う気がしています。単純に木札をお堂などに「立て掛けて」いたとか、木札に紐を通して「引っ掛けて」いたとか。いずれにしろここでは参拝時に納札を「打って」なかった可能性がありそうです。
ではなぜこの場所を参拝する(=札を掛ける)必要があったのか。そこは番外霊場の篠山神社が関係しています。
篠山神社一の鳥居
札掛バス停からこちらの鳥居は見えています。距離にして100mほどです。
「お月を打つとお篠は打たないが、お月を打たない遍路は、観自在寺を打ったあと再び札掛に打戻りお篠を打った」
お月…月山神社(現・高知県大月町)
お篠…篠山神社(現・愛媛県愛南町) ※明治時代以前は篠山権現の名称
※月山神社に関しては、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【大月小学校おへんろ授業1】大月町の月山神社で御神体と神仏習合の歴史にふれる
旧来のお遍路さんが番外霊場の篠山神社への分岐する地点ともいえそうです。なお、この場所から篠山は見えません。
38番札所金剛福寺から39番札所延光寺は、37番札所岩本寺から来た道を途中まで戻る打戻ルートが最も近いです。足摺半島西海岸を歩く月山神社経由の道のりは距離が増大します。
篠山神社は40番札所観自在寺を参拝した後、打戻かつ標高1,000mをこす山岳霊場です。
このどちらかには行かないといけないと言っても、なかなかな究極の選択です。そこで救済策といいましょうか。こちらの篠山神社一の鳥居を参拝することで山上の篠山神社を打ったことと同義となったようです。
このような参拝方法を「遥拝(ようはい)」と呼びますが、それを行う遥拝所は全国に存在します。
かつての高野山は女人禁制だったので、女人はふもとにある慈尊院(じそんいん)を参拝することが高野山詣になっていました。
なぜ遥拝という手段が用いられるのかはそれぞれの霊場で事情が異なりますが、山上にある霊場に向かって山麓から手を合わせる点は全国共通です。
篠山神社へ行くことができないお遍路さんは、篠山神社への入口となるこの場所で札を掛けた。そこから札掛という地名となったようです。
当地とは異なる場所で、43番札所明石寺と44番札所大寶寺の区間の西予市と大洲市の境にあたる鳥坂峠(とさかとうげ)を順打ちで大洲市側に下山した地点に「札懸」という地名が存在し、同じく「ふだかけ」と読みます。ここでは番外霊場で別格7番札所の出石寺(しゅっせきじ)へ行くことができないお遍路さんが参拝したといわれ、札懸大師堂となっています。
札掛とは呼ばれていないにしろ、愛媛県内を参拝していると遥拝所をたびたび目にします。西日本最高峰の石鎚山(いしづちさん)にはいくつも遥拝所が存在しますが、四国のみならず西日本有数の山岳県である愛媛県ならではです。
●永五子年立
長い時間を意味する「永」が付く元号は、江戸時代に多く登場するイメージです。
上部が欠けていることと後ろに木や石があって全体を見ることができないのですが、元号に「永」が付く「五」年の「子」年といえば、
寛永五年…1628年…戊辰
宝永五年…1708年…戊子
安永五年…1776年…丙申
嘉永五年…1852年…壬子
この二つに候補を絞ることができます。四国八十八ヶ所まいりが民衆にも一般的になったのは江戸時代以降ですが、それは宥辨真念の四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ/1687年)以降のことで、当時の情報網や拡散状況から考察すると、前者の時代より後者の方が確率が高そうです。
嘉永5年は第122代天皇である明治天皇生誕の年にあたり、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)が誕生日です。
篠山が見える場所
一の鳥居から篠山は見えないと申し上げましたが、その手前では篠山を見ることができる地点があります。場所でいえば古宅大師堂(こたくだいしどう)がある地点です。
この場所が一の鳥居だったら篠山を遥拝できるのにと思うところですが、そこは篠山詣のお遍路さんは40番札所観自在寺を参拝してからの打戻が多かったことなどがあり、現代の順路と異なる何かがあって、あの場所が札掛になったと思われます。
※篠山神社一の鳥居から篠山神社方面に進んだ先にある篠山小中学校に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【愛媛県愛南町】日本一長い学校名を持つ篠山小中学校と平和を願う県境の篠南橋
【「篠山神社一の鳥居」 地図】