高知県香南市の遍路道沿いで、青い空によく映える青い像があります。約12年間の漂流生活を余儀なくされた、日本版ロビンソンクルーソーともいえる、「無人島長平」と呼ばれた「野村長平」のエピソードが地域で語り継がれています。
日本版ロビンソンクルーソー
野村長平(のむらちょうへい)
1762年(宝暦12年) 土佐國岸本浦(現高知県香南市香我美町岸本)生まれの船乗り。
1785年(天明5年)に田野へ御蔵米を運んで戻る際に嵐に遭う。
鎖国が行われていた時代、異国に出た者が帰って来れないよう庶民には簡素な船造りしか許されておらず 、帆柱を失った長平の船は漂流船となった。
船は室戸岬を出たところで黒潮に乗り、遭難から12日後に当時無人島だった伊豆諸島の鳥島に漂着。
漂着時には長平の他に乗組員が2名いたが共に2年以内に死亡したため、単独生活を強いられることになる。
鳥島での主な食べ物はアホウドリの肉と卵。
当初は火打石を持っていなかったためそれらを生で食した。
水は雨水をアホウドリの卵の殻に溜め、それを口にした。
着る物はアホウドリの羽根を縫い合わせて衣服を作った。
月を観測して三日月を見た回数から年月を計った。
漂着仲間との合流
長平の漂着から3年後の1788年(天明8年)に大坂北堀江から11名、その2年後1790年(寛政2年)に日向國志布志から6名が漂着。
長平を含め無人島生活者が18名(最大)となった。
鍋や釜などの調理道具、大工道具が揃い、それぞれの船の船頭をリーダー格として共同生活を送ることとなったが、栄養失調や精神的なものにより 3分の1の漂着者は死亡した。
漂着から数年経過しても一向に船影が見られないことから、1792年頃に島からの脱出を決意。
志布志船から回収した工具を用いて、漂着した釘などの金属を鍛冶経験のある仲間の手によって再生、船大工経験のある仲間の手によって流木を素材に船を組み立てた。
帆には衣類を用いた。
造船中の船が波にさらわれることのないよう小高い丘の上で作業を行っていたため、完成した船を下ろすためにノミなどで岩を砕き道を作り、約9m下の海岸に下ろした。
造船を決意してから実に5年の月日が経っていた。
長平らは島を脱出する前に遭難の経緯や生活手段、船の組み立て方、大工道具などを洞窟に納めた。
以降の漂着者の便宜を図ってのことだった。
鳥島から脱出、本土への帰還
1797年(寛政9年)、生存していた14名全員が船に乗り込み鳥島を出港。
数日の航海を経て青ヶ島経由で八丈島に入港することができた。
長平にとっては最初に漂流が始まってから12年4ヶ月の月日が流れていた。
一行はこの地で代官所の取り調べを受けた後、幕府の御用船で江戸へ送られ、本格的な取り調べが終わるとそれぞれ故郷に向けて戻ることを許され、それぞれ帰路へとわかれて行った。
13年ぶりの帰郷、長平を待っていたものは…
1798年(寛政10年)、土佐國岸本に戻った。
ちょうど自身の13回忌が営まれている最中だったという。
土佐藩から野村の姓を名乗ることを許された長平は妻子に恵まれ、自身の漂流体験を語ることで収入を得るなど故郷で60年の生涯をまっとうした。
長平の銅像の横にある墓所。
彼のあだ名 "無人島" は墓石に刻まれ、波乱万丈の人生を後世に伝え続けている。
これらの場所は土佐くろしお鉄道・香我美駅駅前広場の横。
27番札所神峯寺から28番札所大日寺に向かう遍路道沿いといえる場所で、駅下には公衆トイレが設置されているので、歩きお遍路さんにとってはとても有難い休憩場所ともなっている。
遍路道中で四国の偉人に触れる機会もしばしば、道すがらのいろいろなものに注目してみるとお遍路が一層奥深いものになると思います。
【「無人島長平の像・墓所」 地図】