40番札所観自在寺から篠山神社へ旧来の遍路道をたどって行くと、三つの鳥居をくぐることになりますが、二の鳥居が登山道の入口になっています。
※篠山神社一の鳥居に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
蕨岡家の寄付によって架橋された篠山橋
この地域では、篠川が県境で橋を渡ると高知県宿毛市ということが多いのですが、この場所に関しては川を渡っても愛媛県です。篠川は西に向かって流れるのに対して、県境線は篠山頂上に向かって北に伸びて行くためです。
すなわち橋を渡った所に見えている篠山神社二の鳥居及び左の森は愛媛県で、谷間が県境で右に見えている森は高知県になります。
昭和39年(1964)7月に篠山橋架設に際して、当主の蕨岡義久氏が多額の寄付を行ったことにより橋が完成して、この場所が篠山への玄関口に成り得たことに感謝、というようなことが石碑に書かれています。
※蕨岡家に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【愛媛県愛南町】代々篠山信仰を受け継いできた「戸立てずの庄屋」伝説
現在は篠山橋を渡らずとも、篠川が流れる谷に敷設された愛媛県道332号篠山公園線をたどって行くと頂上近くへ自動車で行くことができます。しかしながらこの橋が架かった当時はその道路はまだ無かったでしょうから、一本松(現・愛媛県愛南町)から篠山へ行くにはこちらの篠山神社二の鳥居から登るしかありません。それも橋があればできるわけで、そうでなければ篠川を渡渉することになります。宗教的見地としては穢れを祓い身を清める行為として適切なのでしょうが、みんながみんなそれができるわけではありません。篠山橋という近代橋の完成は当地において画期的なことだったと思われます。
篠山神社二の鳥居
歩いて篠山頂上の篠山神社を目指すのであれば、この場所から登山道(=未舗装路)が始まります。鳥居をくぐらせてもらうということは、里という俗世界から篠山という聖域へ入る行為ともいえます。
札掛にある篠山神社一の鳥居と同じように、鳥居に掲げられている扁額には「篠山神社」と記されています。
舟形地蔵が二体に、四国の道規格の木製道標があります。後者はこの写真では立札が見えないのですが、見える側に立ったとしても字が消えていました。
阿賀郡新見●
従是寺迄五十丁
地蔵菩薩浮彫
元文五庚申六月吉日
阿賀郡新見→現・岡山県新見市
阿賀郡は「あかぐん」と読みます。新見は鳥取・広島と県境で接する岡山県北部にある街で、旧阿賀郡の大部分が現在の新見市東部の領域になっています。住所として阿賀郡が存在したのは明治11年(1878)9月から明治33年(1900)3月なので、こちらの舟形地蔵はそれほど古くない?と思ったのですが、左端に「元文五庚申」とあるので、江戸時代の物になります。
元文五庚申六月吉日→西暦1740年6月
元文(げんぶん)は享保の後、寛保の前で、幕府の将軍は第8代将軍徳川吉宗の時代です。同年8月、後桜町天皇が誕生しました。歴史上10代8名存在する女性天皇の一人で、皇室史上最後の女性天皇が第117代後桜町天皇です。代数と人数が異なるのは、二名が二度即位(重祚)しているためです。
第35代皇極天皇・第37代斉明天皇
第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇
平安時代以前は甥の聖徳太子を摂政に立てた第33代推古天皇のように、しばしば見られた女性天皇ですが、江戸時代に二名いたことはあまり知られていません。
従是寺迄五十丁
ここでいう「寺」とは篠山権現別当の観世音寺のことと思われます。50丁は約5.5kmで、坂が緩かったり急だったりあると思いますが、篠山頂上まで登り続ける5.5kmの道のりを示しています。
篠山が見える場所
写真中央の田んぼの後ろに低いものから高いものまで丘と山が四枚重なっているのが見えますが、二の鳥居があるのが二枚目の山のふもとです。そこを登山口として時計回りに上昇しながら三枚目に見えている山に取り付き、その稜線を左から右へ進み四枚目の山を目指します。頂上付近の真ん中が割れて二つの峰が見える四枚目の山ですが、そちらの右側が篠山頂上(1,065m)です。
※篠山神社と篠山登山道に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【「篠山神社二の鳥居」 地図】