お遍路巡礼をしていると新旧数多くの道標を目にします。それらは石柱であり、木製であり、現代では金属製であり…材質は変わっても役割は同じ。お遍路さんが道に迷わないように、物言わず巡礼者を見守り続けます。
こちらは四国四県に広く存在する、中務茂兵衛(なかつかさもへえ)さんの遍路石。
出身は周防国大島郡椋野村(むくのむら)、現在の山口県大島郡周防大島町。江戸時代末期~大正時代にかけて四国遍路を回り続けた人物。22歳の時に四国に上陸してから一度も故郷に帰ることなく、四国八十八ヶ所を歩くこと280周。先にも後にも歩いてこれほど四国遍路を回った人はおらず、「遍路の鉄人」や「大先達」「生き仏」等と呼ばれている。
42歳の時に四国遍路八十八度目の供養として初めて遍路石を建立。44歳の時に百度目を記念して遍路石を立てて以降は、後から訪れるお遍路さんのために施主を募っては道標を立て続けた。現在確認されているだけでもその数は230基を数える。
茂兵衛さんのお話は、また機会を改めて…
柏坂入口の標石に刻まれた茂兵衛さんの提案
愛媛県愛南町柏に残された茂兵衛さんの遍路石。砂岩製のきれいな石で、字の判読も容易。
ここで特筆するべき表記は「舟のりば」。当地がこの後控えるは「柏坂」。今も残る未舗装の遍路道としては、12番札所焼山寺への古道に次ぐ長さがある。
「そんな険しい道を避ける手段がありますよ」という茂兵衛さんからの提案。
当時は宇和島を出て途中寄港しながら小筑紫(宿毛)に至る航路があった。遍路の間では「お助けの舟」として知られていたが、実際には遍路の利用はそう多くはなかったという。乗船にはもちろん船賃が必要。決して裕福ではない時代、舟に乗りたくても乗れなかった。
茂兵衛さんが当時どのような心境で巡礼を行っていたかを知る由はないですが、この句から察するに 遍路が乗物を利用していいのか迷いがあったと察します。そう仮定すると この遍路石を建立するまでの茂兵衛さんの考えは、現代の事情と似たものがあります。この石には壱百八十四度目とありますが、そのタイミングで迷いが解けた(考えが変わった)のでしょう。実際この転機によって余力ができたのか、その後加齢があるにも関わらず、更に百度近く回られています。
※この標石に関しては、以下リンクの記事でさらに詳しくご紹介しています。
【40番札所観自在寺→41番札所龍光寺】情報量に保存状態、いずれも全標石中随一を誇る標石
四国遍路は歩かないかん!
今日そう言われる方々がとても多いのが残念です。
遍路修行は 誰かに評価されるための巡礼ですか?
完全歩きだけが価値のあるものではありません。
四国遍路によってあなたが変わることをご先祖様や周囲の方々は見ています。どのような手段で回ろうと、自分の判断で決めた道(方法)以上に尊いものはありません。
四国遍路は自分と向き合う旅。巡礼の成果は人が決めるものではなく、自分がどう感じるか。
遍路の大先達・中務茂兵衛さんがこう詠まれたように、周囲の目より自分が得るものを大切に回られてください。
【「柏坂遍路道登山口の標石」 地図】