篠山登山口にあたる愛媛県愛南町正木地区に、立派な銀杏が特徴的な曹洞宗寺院「歓喜光寺」があります。場所柄、篠山権現の前札所に位置付けられていた時代があるようです。
歓喜光寺
四国八十八ヶ所霊場の番外霊場である「歓喜光寺(かんきこうじ)」があるのは、篠山の愛媛県側登山口に当たる愛南町正木地区です。当地には6世紀に興った篠山の開山伝説にも登場する蕨岡家があります。歓喜光寺はその隣に位置します。
※蕨岡家に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【愛媛県愛南町】代々篠山信仰を受け継いできた「戸立てずの庄屋」伝説
歓喜光寺の宗派は曹洞宗になります。曹洞宗寺院では「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」を祀るのが一般的な形式です。釈迦牟尼仏とはお釈迦様の尊称で、南無釈迦牟尼仏と唱えてから読経を開始します。しかしながら当寺院のように観世音菩薩など別の仏さまを本尊としてお祀りすることもあるようです。
歓喜光寺は篠山権現の前札所に位置付けられていた寺院で、蕨岡家と同じくして篠山と密接な関係にありました。明治時代初期に神仏分離が行われた際には、篠山権現や旧観世音寺に祀られていた仏様や寺宝などの多くが廃仏毀釈の難から逃れるため、歓喜光寺に運ばれてきたと伝わっています。
その時に新たに祀られることになったのが観世音寺本尊の十一面観音菩薩であったため、歓喜光寺は曹洞宗寺院でありながら本尊が十一面観音菩薩になっているようです。
似た経緯として、13番札所大日寺と一宮神社のケースがあります。
大日寺は寺名が「大日」でありながら本尊は十一面観世音菩薩です。明治時代以前に一宮神社に祀られていたのが十一面観世音菩薩で、大日寺は大日如来を祀る寺院でした。それが明治時代初期に神仏分離が行われ、別当寺である大日寺が一宮神社の十一面観世音菩薩を受け継いで本尊とし、従来の大日如来を脇仏として現在に至ります。
また山上の霊場・番外霊場とふもとの前札所の関係でいえば、60番札所横峰寺周辺の例も近いものがあります。
60番札所横峰寺のように紆余曲折を経て元に戻った例もあれば、13番札所大日寺や篠山神社のように現在に至っているものもありますが、いずれのケースにしても明治時代初期の神仏分離によって行われたという点が共通しています。
篠山神社関係の寺社がいくつか登場するので整理しておきます。
観自在寺…40番札所札所
篠山権現…40番札所奥之院、篠山神社の旧称
篠山神社…40番札所奥之院、明治4年(1871)に篠山権現から改称
観世音寺…篠山権現別当 ※現存しない
歓喜光寺…篠山神社前札所
※篠山神社に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
大師堂と権現堂
写真の赤い屋根が歓喜光寺の大師堂です。曹洞宗開祖の道元も大師号を贈られた承陽大師(じょうようだいし)なので、歓喜光寺においては弘法大師空海ではなく道元を祀った大師堂かもしれません。弘法大師堂とは記されていなかったように思います。
その後ろの墓地の区画に大師像が見えますが、そちらの姿は空海さんでした。歓喜光寺へは時代を問わずお遍路さんの参拝があったでしょうから、ここでの大師は弘法大師であったとしても不思議ではありません。
この時は雨が降りそうだったので権現堂へ登らなかったのですが、そちらにはかつて篠山神社の祭神であった篠山三所大権現が当所へ移されて祀られているそうです。
武田徳右衛門標石
蕨岡家北東角、歓喜光寺の参道沿いに武田徳右衛門の標石があります。
大師像
これよりささ山へ二り
施主川内屋
願主徳右衛門
武田徳右衛門とは伊予國朝倉(現・愛媛県今治市)の生まれで、江戸時代に四国各地に八十八ヶ所の行先や距離を示す標石を寄進した人物です。
現代ではお遍路さんへ篠山巡礼を勧めたり案内するようなものを見ることは稀ですが、武田徳右衛門が活躍していた江戸時代はお遍路さんが行くべき場所として篠山(笹山とも)が示されていたことがわかる貴重な物証です。
※篠山神社方面に進んだ先にある篠山神社二の鳥居に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください
【「歓喜光寺」 地図】