阿波三大遍路ころがしのひとつである難所の20番札所鶴林寺への遍路道。国史跡に指定されている「鶴林寺道」の区間の山中にサイズの大きな中務茂兵衛標石が現れます。四面全てに記載がある内容豊富な標石で、彫刻もとても豪華で見応えがあります。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<正面>
右(浮彫袖付き指差し)
鶴林寺
大師座像(沈み彫り)
当山厄除弘法大師●●
毎夜●●
参篭●●
●●
20番札所鶴林寺への未舗装遍路道の道中にあるこちらの標石の正面には、サイズが大きく浮き彫りに沈み彫り、参篭の案内と造形も内容も盛りだくさんです。詳細は上下にわけて見て行きたいと思います。
※国指定史跡「鶴林寺道」に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【20番札所鶴林寺への遍路道】南北朝時代建立の「丁石」が残る国指定史跡「鶴林寺道」
<正面上部>
右(浮彫袖付き指差し)
鶴林寺
大師座像(沈み彫り)
・
・
・
ダイナミックな浮彫指差しと思ったらその下には沈彫の大師座像。空海さんの表情や座前の仏具まで精巧に描かれていることがわかります。
さて、大師座像といえば
<正面下部>
・
・
・
当山厄除弘法大師●●
毎夜●●
参篭●●
●●
こちらの石は調査時に下部に苔が覆うように生えていて、全ての字を判別することができませんでしたが、おそらく現在の別格13番札所仙龍寺の案内と似た文言と思われます。
※別格13番札所仙龍寺の参篭案内が記された標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】旧街道と新バイパスの交差点の中務茂兵衛標石
標石建立当時は鶴林寺にも宿坊があり参篭することができたのでしょうか。今でこそ営業はされておりませんが、鶴林寺へ行くと境内に宿坊だったのかなと思しき建造物があります。
参篭といえば奥之院でというイメージがありますが、こちらの石で示す参篭の案内は鶴林寺でのもので、20番札所奥之院(=別格3番札所慈眼寺)ではないようです。またこれだけ内容盛りだくさんな標石ながら、鶴林寺周辺の石に多い奥之院を案内する表記はありません。
標石右面に表記されている内容
<右面>
右
太龍寺へ
一里余
二百十九度目為供養
周防國大嶋郡椋埜村
願主中務茂兵衛義教
右面も内容が豊富なので上下にわけて見て行きたいと思います。
<右面上部>
右
太龍寺へ
一里余
・
・
・
「太龍寺」とは20番札所鶴林寺の次の札所である21番札所太龍寺のことと思いますが、この標石がある地点ではまだ鶴林寺に到達していません。なのにそれを飛ばして次の次の札所の情報が示されている点、これ如何に。
現代の当地の宿事情から考察した仮設になりますが、鶴林寺山を登って下りたところにある大井集落は宿泊施設がありません。今だと必ず朝イチに鶴林寺を登り始めて参拝して大井集落へ下山し、そこで留まらず次の太龍寺も同じ日に登って参拝して下山することになるので、なかなか過酷な道のりです。
この事情が昔も今もあまり変わらなかったのかもしれません。すなわち鶴林寺を目指すのであれば、次の太龍寺も頭に入れておかないといけないよ、という意味を込めての太龍寺の表記がされている。
いかがでしょうか。
標石が建立された時代に大井集落に宿が有ったか無かったか定かではないのですが、その場所では那賀川(なかがわ)という大きな川を渡ります。現代には水井橋(すいいばし)があって那賀川を常時渡ることができますが、橋が無かった時代は渡し舟しか交通手段がなかったことでしょう。川が増水すると渡し舟が運休します。特に大井付近の那賀川は流れが速い瀬になっているので、いつもいつも渡れるわけではありません。そこで大井より幾分か渡川難易度が下がる十八女(さかり)集落へ迂回して、那賀川を渡って加茂谷から太龍寺を目指したお遍路さんもいるはずで、そのルートが国指定史跡「阿波遍路道」の一つである「かも道」です。
結局のところ、この標石の太龍寺表記の理由について確かなことはわかりませんが、今も昔もこの場所が遍路ころがしの難所であることに変わりません。歩き遍路で20番札所鶴林寺を目指すときは21番札所太龍寺とセットで、くれぐれも時間の余裕を持って入山されるようにしてください。
<右面下部>
・
・
・
二百十九度目為供養
周防國大嶋郡椋埜村
願主中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「219度目/279度中」の四国遍路は自身63歳の時のものになります。
標石左面に表記されている内容
標石の右に上に向かって伸びる道が鶴林寺道ですが、土砂流出を防ぐためか勾配が急な区間等では補修されている箇所があります。
<左面上部>
左
立江寺へ
二里半
・
・
・
二里半=約10kmという距離もですが、ここまで来ると感覚的にも前札所の19番札所立江寺が遠く感じますね。それだけ鶴林寺が近づいている実感を得ることができるのがこの場所です。
<左面下部>
・
・
・
施主
東京
深川区大住町 吉田熊吉
仝区大住町 髙松清太郎
仝区大住町 古市●●
深川区は現在の東京都江東区の一部に当たる街区で、昭和22年(1947年)3月に城東区と合併して江東区になりました。
1878(明治11年)11月2日 郡区町村編制法により深川区発足(15区時代)
1889(明治22年)5月1日 市制施行により東京市深川区
1923(大正12年)9月1日 関東大震災により区内壊滅
1943(昭和18年)7月1日 東京都制施行により東京府と東京市が廃止され同区域が東京都に。東京都深川区になる
1945(昭和20年)3月10日 東京大空襲により区域内壊滅
1947(昭和22年)3月15日 深川区及び城東区の区域をもって江東区発足
かつて旧深川区の目の前に広がる東京湾では、海苔の有名ブランドの一つであるアサクサノリ(浅草海苔)の養殖が行われておりました。主産地が深川沖で加工されたのが浅草であったためその名称があります。
海苔といえば寿司ですが、当地で食されてきた寿司のことを「江戸前鮨」と呼びます。江戸前(えどまえ)とは江戸の前に広がる海のことで、そこで獲れた魚を「茹で・煮る・昆布締め・酢締め・漬け」の五大技法と呼ばれる調理法で更に美味しく食べる、もしくは冷蔵技術未発達の時代に少しでも長く賞味することができる保存食として発達したものが江戸前鮨です。
今では全国から東京に集まる一級の海鮮食材(ネタ)をシャリに乗せて提供することが江戸前鮨の真髄のようなイメージになっていますが、元々は江戸前の海で獲れる海鮮、すなわち前述のアサクサノリも含め食材の多くを地産地消で賄うことができていたのが江戸前のお寿司です。
残念ながら明治以降の日本では工業が優先された歴史があるので、施主住所にある旧深川区では地域の発展に伴い沿岸には工場が立ち並ぶようになり、更なる工場地拡大等のため沿岸部では埋め立てが行われるなどしたため徐々に東京湾の水質が悪化していきました。自然環境の保全が省みられる時代ではなかったため、壊滅的な被害を被った江戸前での漁業やアサクサノリの養殖は衰退し、現代ではアサクサノリは絶滅危惧種に指定されているほどで、細々生産されるそれは超高級品になっています。
施主住所にある大住町は住所上では現存せず、江東区福住2丁目の一部がそれに当たります。
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
明治四十年二月吉辰
明治40年は西暦1907年。同年同月23日、麒麟麦酒(キリンビール)が設立されました。同社は国産ビールにおいて草分け的な存在ですが、その過程において三菱財閥が深く関わっています。
施主住所の旧大住町の隣の街区は清澄(きよすみ)。そこにある清澄庭園は三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎(1代)から弥之助(2代、弥太郎弟)、久弥(3代、弥太郎長男)の三代に亘って造園に携わった、回遊式の庭園です。
岩崎家が深く関わった麒麟麦酒が設立されたのが明治40年2月。
その年に建立されたのがこちらの標石。
その石を建てた施主らが暮らすのが旧深川区。
そこにあるのが岩崎家が整備した清澄庭園。
それぞれ別物だとは思いますが、このようなニアミスがあるのが歴史の面白いところだと思います。
標石メモ
発見し易さ ★★★★☆
文字の判別 ★★★★☆
状態 ★★★★☆
総評:遍路道沿いにあり石のサイズも大きいことから、この場所を通行するのならば見落とすことはないと思われます。山中にあるため自家用車等での訪問はできません。一部に文字の判別が難しい部分がありますが、記載内容の多くを読み取ることができる状態の良い標石です。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「鶴林寺道にある記載内容が豊富な中務茂兵衛標石」 地図】