20番札所鶴林寺と21番札所太龍寺の阿波三大遍路ころがしのうち二つを越えたのも束の間。次の22番札所平等寺へは再び峠を越えなければいけません。峠の入口に当たる場所に中務茂兵衛標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
左(袖付き指差し)
平等寺
肥前國
佐賀市
平等寺→22番札所平等寺(びょうどうじ)
阿波國三大遍路ころがしの二(20番札所鶴林寺)・三(21番札所太龍寺)を越えて無事に下山するとこの標石がある場所に差し掛かります。ここから標石が示す次の札所である第22番平等寺へ行くには、もういっちょ難所である大根峠(おおねとうげ)を越えなければいけません。とはいえ、ここまでに越えてきた難所のことを思うとそれらよりは易しい道です。
標石正面の中部・下部は施主の情報になりますが、こちらに記されている肥前國は現在の長崎県と佐賀県を合わせた地域。幕末に長けた存在だった藩を「雄藩(ゆうはん)」と呼びますが、その中で「薩長土肥(さっちょうどひ)」、すなわち薩摩(鹿児島)・長州(山口)・土佐(高知)・肥前(佐賀)。佐賀を含むこれらの藩は有力者を多数輩出して明治維新の原動力になりました。肥前からは「七賢人(しちけんじん)」と呼ばれる偉人らが出て存在感を示します。
しかしながらその中の一人である江藤新平が薩摩の大久保利通と対立して政府を去ったあたりから肥前の雲行きが怪しくなり始めます。下野した江藤は俸禄が打ち切られ(=四民平等、廃刀令など)、不平を抱く士族たちと共に佐賀の乱(1874年)を起こします。乱は短期間で鎮圧され江藤は処刑。以降は独立ゆるすまじと明治9年(1876年)以降は三潴県(みずまけん。現・福岡県南部)や長崎県に統合されるなど苦難の道を歩み、再び独立が認められたのは明治16年(1883年)のことでした。
※江藤新平と四国の接点について、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひごらんください。
<正面下部>
施主
松原町 ●●
白山町 ●●
仝 ●●
仝 ●●
材木町 ●●
こちらに記されている町名はいずれも現在の佐賀市内のもの。佐賀市は明治22年(1889年)4月1日の初代市制施行31都市の一つ。東京市の5月1日や名古屋市の10月1日より早い時期から市を名乗っています。もっとも東京や名古屋の市制施行が遅れたのは大都市ゆえに調整を慎重に進めたことが想像することができるので、この時点で佐賀市のほうが都会だったという意味ではありません。
標石に記されている地名のうち、松原(現在の佐賀市松原1-4丁目)は佐賀城の堀のすぐ北側に位置する街区で、藩祖を祀っている佐嘉神社や佐賀藩に由来する品を保管・展示している徴古館(ちょうこかん)があり、いずれも藩主であった鍋島家とゆかりの深い地域。佐嘉神社は「さがじんじゃ」と読みますが、明治以前の佐賀は佐嘉の字のほうが多く用いられていたようです。
鍋島家といえば肥前武士の心得を説いた書物「葉隠」が知られています。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言が有名。とはいえこの部分だけでは書物の示すところとはいえず、第二次世界大戦期はその部分だけが曲解されて特攻や玉砕を美化する教材となったため、戦後は禁書扱いになった経緯があります(現在はそのようなことはありません)。
こちらの標石が建てられたのは明治32年(1899年)。佐賀の乱が明治7年(1874年)。施主の方々は佐賀県が存在しなかった時代を生きてこられたでしょうし、中には佐賀の乱も経験されている方もいらっしゃるかもしれません。
標石の右面に表記されている内容
<右面>
明治三十二年七月吉辰
明治32年は西暦1899年。
同年6月に大阪府下に摂津電気鉄道(せっつでんきてつどう)が設立されています。同社は現在の阪神電鉄の旧社名にあたり、鉄道路線としては明治38年(1905)4月に神戸-大阪間を開業させています。それは鉄道が「長距離・大量輸送」と認識されていた時代に「近距離・高頻度運転」を行い都市間輸送の嚆矢となりました。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
右(袖付き指差し)
太龍寺
鶴林寺
臺百六十九度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教
太龍寺→21番札所太龍寺(たいりゅうじ)
鶴林寺→20番札所鶴林寺(かくりんじ)
「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」
の二と三がこの標石に記されていますが、正面の平等寺の表記が横書きなのでそれに対応している点と考えると茂兵衛さんが伝えたかったのは鶴林寺へのルートであり、太龍寺の記載は後年の追記かもしれません。
※この時代の横文字は正確には横書きではなく縦書きの一文字改行です。
標高602mに位置する太龍寺へ向かう道はいくつもあり、現代ではメインルートとされている道が標石が建てられた時代はそうでなかった可能性があります。
現代の鶴林寺から太龍寺へのルートは、鶴林寺から大井集落に下山すると那賀川(なかがわ)に掛かる水井橋(すいいばし)を渡り再び太龍寺へと登っていきますが、この場所に橋が架かったのは戦後のこと。それまでは専ら渡し舟でした。確かにそこを渡って若杉谷をわけ入るルートが最短距離ではありますが洪水時は渡ることができません。
そうなると計算できるルートはどこかという話になりますが、鶴林寺から大井に下山(ここまでは同じ)。那賀川沿いに下流方法に進むと十八女(さかり)という集落があり、そこであれば(大井よりは)早い時代から橋が架かっていたでしょうし、そうでなくても川幅があって流れが緩やかなので渡し舟の就航率も大井よりは良かったと思われます。そちらへ迂回すれば太龍寺へは「かも道」と呼ばれる古道がありました。
このように考えるとこの標石が指す方向との辻褄も合う気がします。
中務茂兵衛「169度目/279度中」の四国遍路は自身55歳の時のものになります。
【「大根峠入口の中務茂兵衛標石」 地図】