87番札所長尾寺手前の旧遍路道には古い遍路石がいくつも残っています。「指さし」で道案内してくれる遍路石と「手のひら」で道案内してくれる遍路石があるのですが、意味には違いがあるのです。
鴨部川を渡る長尾橋の遍路石
87番札所長尾寺手前の遍路道には多くの史跡が残っており、広瀬橋近くの広瀬公民館隣の墓地には、昔のお遍路さんの様子を垣間見ることができる遍路墓が複数安置されています。
※広瀬地区の遍路墓に関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【87番札所長尾寺手前の旧遍路道】遍路墓から見える昔の遍路と地域の関わり方
ここから鴨部川沿いを進んでいくと、川を渡る長尾橋周辺にふたつの遍路石が残されています。
「へんろ橋」とも呼ばれている「長尾橋」で鴨部川を渡って遍路道を進みます。
橋を渡るのは、来た道を左折することになりますが、このときの「左折」がポイントです。
覚えておいてください。
長尾橋先の遍路道と旧遍路道と幻の橋
長尾橋を渡ると遍路道の案内看板があります。
この看板によると、現在の遍路道の裏側が昔の遍路道だったそうで、現在の長尾橋ではなくその手前に今はなき橋がかかっていたとのこと。
この看板をよく読まないと、通常は現在の遍路道をそのまま直進すると思いますが、せっかくなので旧遍路道の方に入っていきます。
中務茂兵衛と中井三郎兵衛の遍路石
旧遍路道を進んでいくとT字路(正確には十字路なのですが、直進路は非常に狭く、メイン路はつきあたり左右方向にはしっています)に突き当たります。
このT字路の角にも古い遍路石があり、道案内をしてくださっています。
この遍路石は、願主「中務茂兵衛(なかつかさもへえ)」、施主「中井三郎兵衛(なかいさぶろうべえ)」の遍路石です。
中務茂兵衛は、明治から大正時代にかけて280回も四国遍路をしたといわれる大先達で、四国中に多くの道標を建立し、四国遍路文化の発展に貢献した人物です。
280回目の遍路道中にこの長尾寺手前の地域で亡くなったそうで、ゆかりの深い地域に建てられた遍路石なのです。
中井三郎兵衛は、京都の実業家で、中務茂兵衛のスポンサーとなり遍路石の建立に力を貸したそうで、この遍路石は中井家の先祖供養のために建立されたものでもあるとのこと。
この遍路石が建てられたところは分岐点ではありますが、昔のメイン道路を道なりに進んでいく角に建てられいることがポイントで、「指さし」であることを覚えておいてください。
遍路道と旧遍路道の分岐点に建てられた遍路石
旧遍路道と現在の遍路道が交差する地点にも遍路石が残されています。
旧遍路道から進んできた直進方向の道と、右折方向の現在の遍路道は現代になって新しくつくられた道のようです。
昔の遍路道は、田んぼや住宅が並ぶ畦道をくねくねと進んでいたと思われます。
さあここで、この記事のタイトルにもなっている「指さし」と「手のひら」の案内の仕方の違いについて、答えはおわかりでしょうか。
「手のひら」は進んできた道をを道なりに進まず道をそれることを表し、「指さし」は進んできた道を道なりに進むことを表しているのです。「手のひら」は一度立ち止まって方向を変える、「指さし」は来た道をそのまま進むと覚えてください。
現代においては、新しい道がたくさんできて昔の遍路石が役目を果たさなくなったり、矢印で示される現代の道標が多く建てられ、この「指さし」と「手のひら」の意味を知る機会が減っているので、歩き遍路を経験された方も知らない方が多いのではないかと思います。
遍路石に着目してみると、昔の遍路道の様子や遍路文化を受け継ぎ、発展に貢献してきた方々の功績も感じられるきっかけになります。
長尾寺手前の遍路道は、昔の遍路の史跡が多く残る地域ですので、ぜひゆっくり散策しながら歩いてみてください。
【「長尾橋(へんろ橋)」 地図】