88番札所大窪寺前後に残されている中務茂兵衛標石はキャリア後期のものを多く見ることができますが、こちらに残されている標石も242度。巡拝回数から明治時代の終わりに建てられた標石であることがわかります。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
標石が残されている場所は、前山ダム上の道沿い。88番札所大窪寺(おおくぼじ)方面に向かって左カーブを曲がった先には「おへんろ交流サロン」「道の駅ながお」があります。
※おへんろ交流サロンに関しては、以下リンクの廣瀬さんの記事で詳しく紹介されています。
【前山おへんろ交流サロン】お遍路のイメージがわかる貴重な資料群
歩き遍路さんはこの場所から大窪寺まで、「女体山」「花折峠」「県道3号」の三つのルートを選択することができます。
<正面上部>
右(指差し)
大窪寺
左(指差し)
長尾寺
指差しがどちらも内側を向いている独特の表現方法。こちらの写真のように二次元(平面)で目にすると、指をそれぞれ外側に向けて行先を表示する方が良いように思いますが、そこは巡礼者目線なのでしょうか。左(=87番札所長尾寺)から来たお遍路さんに最も近いのは石の左側。右(=第88番大窪寺)はその逆。
とは自分の勝手なイメージですが、趣向を凝らした製作者さんであったことが想像できます。
<正面下部>
施主 岡山停車場前
小林氏先祖代々菩提
●●事 小林●●●
今でこそ鉄道に乗降する場所は「駅」と呼びますが、明治時代の日本に鉄道が導入された当時は「停車場(ていしゃじょう)」が公的な呼称でした。ただしその頃は乗客が乗り降りする場所も、列車のやり繰りを行う操車場も、行き違い等で停車する信号上も、定義の上では全て「停車場」。「駅」という単語も存在しましたが、その単語自体元々は馬車を牽く馬を休ませたり水や飼料を与える施設。時代的に馬車鉄道が存在した時代なので、当時の人々からしたら駅はそちらのイメージだったかもしれません。
明確な区別が行われたのが昭和11年(1936)の法改正。利用者に関わる停車場を駅、鉄道運行に関わる場所を停車場と区別するようになりました。
ではこちらの標石が差す「岡山停車場」はどの部分?ということになりますが、そこは一般人の寄進なので現在の「岡山駅」のことだと考察します。
仮にこれが鉄道省(現JR)が建てたものだとしたら、岡山駅の西側に広がる「岡山運転区」も含めた広大なエリアを指すことになります。
標石の右面に表記されている内容
二百四十二度目為供養敬立
周防國大島郡椋野村住
発願主 中司茂兵衛義教
中務茂兵衛242度目(279度中)の四国遍路は自身68歳の時。
「敬立」は他の石ではあまり見かけない表現。
茂兵衛さん自身は22歳の出奔から約50年間一度も故郷・周防大島へ帰ることはなかったようですが、住所は一貫して「周防國大島郡椋野村」、時にはこちらの標石のように「住」を付けています。帰省することはなかったけれど、自身が生まれ育ててくれた故郷への畏敬の念を持ち続けていたと察することができます。
標石の左面に表記されている内容
明治四十五年四月吉辰
明治45年は西暦1912年。同年同月、北大西洋上でタイタニック号が氷山に衝突して沈没。死者1,500人を超える海難事故が発生しています。
日本においては明治最後の年。7月30日、明治天皇の崩御によって元号が大正に改元されました。
【「前山ダム付近の中務茂兵衛標石」 地図】