四国八十八ヶ所の番外霊場にして、第40番奥の院、別格二十霊場第6番札所など。
宇和島市街地中心に位置し日々多くの参拝者で賑わう「龍光院」ですが、参道傍に中務茂兵衛の標石が残されています。

本堂大師堂

龍光院(愛媛県宇和島市)

中務茂兵衛さんメモ

明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し回られた方で、山口県の周防大島出身。
18歳の頃に周防大島を離れ、一度も故郷に戻ることなく四国を回る事 279回。 バスや自家用車が普及している時代ではないので、徒歩での記録。
回った回数は歩き遍路では最多記録と名高い。
 
明治19年(1886)、自身42歳・88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。
そのの標石は四国各地で確認されているだけで243基。
 札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

—– こちらの記事に登場する主な地名
龍光院(りゅうこういん)
和霊神社(われいじんじゃ)
周防大島(すおうおおしま)
椋野(むくの)
南海部郡(みなみあまべぐん)
佐伯市(さいきし)

—– こちらの記事に登場する主な登場人物
中務茂兵衛(なかつかさもへえ / 1845~1922) … ↑上記参照
山家清兵衛公頼(やんべせいべえきんより / 1579~1620) … 伊達政宗が庶長子・秀宗に付けた惣奉行。宇和島藩主秀宗の密命により暗殺された。

 

参道階段脇に位置する標石

中務茂兵衛標石

龍光院参道で見られる中務茂兵衛標石

白っぽく表面がサラサラとした砂岩製なのは、愛南町柏にあるものと共通。

< 参考記事 >柏坂の登り口に残る遍路石と大先達「中務茂兵衛」の教え【愛媛県愛南町柏】

 

蚊帳を吊らない言い伝え… 和霊さま

中務茂兵衛標石

中務茂兵衛標石正面

和霊社
四十壱番 ゐなり

壱百九十度目為供養
周防國大嶋郡椋野村住
施主中務茂兵衛義教

こちらの面は、順打ちで進んだ場合の先の情報。

“ゐなり”“稲荷”
「三間のおいなりさん」と呼ばれる第41番龍光寺のこと。 神仏分離以前は「いなり」と呼ばれていた証。

和霊社は今日の “和霊神社”
時は江戸時代初期、宇和島伊達家の家老・山家清兵衛公頼(やんべせいべえきんより)が 藩主秀宗の密命により暗殺されたが、程なくしてその首謀者たちが相次いで変死。
その後、宇和島を襲った大地震、台風、飢饉などの天変地異、秀宗自身の発病に息子たちの相次ぐ早逝など、これら全てが公頼の祟りと恐れられた。
それらを受けて公頼の霊を祀る場所として和霊神社が建立された。

宇和島城下には 「公頼の命日に蚊帳を吊らない」 風習が今も伝わるが、これは蚊帳を張って寝静まっている公頼がその四隅を切り落とされ、身動きが取れないうちに討ち取られたことに由来する(和霊騒動 / 元和6年6月30日、西暦1620年7月29日)

【「和霊神社」 地図】

 

大分と愛媛(四国)を繋ぐ標石

中務茂兵衛標石

中務茂兵衛標石右面

本堂
ぎやく
観自在寺

豊後國南海部郡●●
●●
施主里見●●

すぐそこのことと、逆打ちの情報。

寄進者部分の解読が難しいのですが、 「南海部郡(みなみあまべぐん)は平成17年(2005)の市町村合併まで存在した地名。 現在の大分県佐伯市。
大分県は九州地方ながら後方を山に囲まれていて、かつては他九州地方との交流は乏しく、むしろ海を隔てて向き合った愛媛や山口との交易が盛んだった地域。
遍路として四国に渡る者が多い地域なので、標石の施主となる人物が現れても不思議ではない。

中務茂兵衛標石

中務茂兵衛標石左面

明治三十五年七月吉辰
石工 佐伯町(?)
中村●●

石工の所在地(住所)の部分を “佐伯町” と読むこともできる。
(前述の通り)施主さんが大分県南部の現在の佐伯市の人物なので、地元で石を加工してこの地に運んだのかもしれません。
実際、海を渡ればそんなに遠くないですね。
こちらの中務茂兵衛標石は、東九州と西四国が近く、交易があったことを示す証左でもある貴重な史跡です。

 

【「龍光院」 地図】

 

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野瀬 照山

八十八ヶ所案内人・先達であり、旅人をお迎えするゲストハウスそらうみを運営。 四国八十八ヶ所結願30回、うち歩き遍路12回。 四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「さぬき高松ゲストハウスそらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。