47番札所八坂寺からほど近い松山市荏原集落は、四国遍路の元祖「衛門三郎」の出身地といわれています。衛門三郎の邸宅跡に創建されたとされる「文殊院」と衛門三郎が初めて札を納めたとされる「札始大師堂」に立ち寄りました。
四国遍路の元祖「衛門三郎」
久万高原町から松山市に入り、46番札所浄瑠璃寺、47番札所八坂寺を参拝しましたが、このあたりの地域は、四国遍路の元祖とされている「衛門三郎」の出身地だといわれています。
衛門三郎は、平安時代に伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の松山市恵原町あたり)の豪農で、権勢をふるっていたましたが、欲深く、民の人望が薄かったそうです。
あるとき、門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとしたので、衛門三郎は家人に命じて追い返しましたが、翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れ、8日目にとうとう衛門三郎は怒って僧が捧げていた鉢をつかんで地面にたたきつけ、鉢は8つに割れてしまいまい、僧の姿も消えてしまったとのことです。
その後、衛門三郎の8人の子供が立て続けに亡くなり、悲しみに打ちひしがれる衛門三郎の枕元に空海が現れ、あのときの僧が空海だったことを知ります。四国を巡礼している空海に会って懺悔するために、家や田畑を売って金にかえ、それをもって四国巡礼を始めたのが「四国遍路」の原型とされ、衛門三郎が「四国遍路の元祖」とされる由来です。
20周巡礼しても空海に会えず、逆まわりに巡礼することにし(「逆打ち」の原型)、逆まわり3回目に徳島県の「焼山寺」近くで空海と出会うことができ、そこで命が尽き果てたといわれています。
※衛門三郎終焉の地「杖杉庵(じょうしんあん)」に関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【杖杉庵】焼山寺からの下りでは、四国遍路の元祖「衛門三郎」を偲ぶ
衛門三郎の邸宅跡に創建された「文殊院」
47番札所八坂寺を出発し、池のほとりを歩いて、約1km進んだところの遍路道県道194号沿いにあるのが、別格霊場9番札所文殊院(もんじゅいん)です。
このお寺は、衛門三郎の邸宅があった跡に創建されたといわれ、空海が衛門三郎の死後、衛門三郎の子供の供養と、悪因縁切の御修法をして衛門三郎を許した地なのだそうです。
当時は「徳盛寺」と呼ばれていたようですが、空海が文殊菩薩に導かれてこの地に逗留したことから「文殊院」と改められたとのこと。
【「文殊院」 地図】
お大師さまが野宿し、衛門三郎が初めて「納札」を書いた「札始大師堂」
文殊院をあとにし、遍路道をさらに1.5kmほど進むと、「札始大師堂(ふだはじめだいしどう)」があります。
この大師堂は、天長元年に空海が川の中州で野宿しようとしましたが、にわか雨で水が溢れ身の置き所がなくなってしまったので、法力で草庵を造り一夜を明かしたとされる場所です。
その後、衛門三郎が四国巡礼に出発した際に、この地に立ち寄り、大師自刻の尊像がまつられているのを見つけ、懺悔し、空海が訪れるのを待ち一夜を明かし、翌朝出発する際に紙に自分の住所と名前を書いてお堂に貼ったいわれています。
このことが、現代のお遍路さんも行う「納札(おさめふだ)」の始まりとされることから、「札始大師堂」と呼ばれています。
ちなみに、この大師堂は、近くにある「大蓮寺(だいれんじ)」の境外仏堂で、正式名称はこのあたりの地名からとった「小村(こむら)大師堂」です。
【「札始大師堂」 地図】
私は、歩き遍路をしていると、四国遍路の元祖「衛門三郎」について興味がわいてきて、昔もっと環境や条件が厳しい中で、歩き遍路を始めた衛門三郎に親近感もいだくようになりました。
ぜひ遍路巡礼中、特に歩き遍路さんは、衛門三郎ゆかりの地に立ち寄ってみてください。