77番札所道隆寺の境内には、西国・秩父・坂東の百観音など、全国各地の観音霊場として名高いお寺の御本尊が安置されています。草創期には、相次いで高僧が住職となり、たいへん栄えた歴史があります。
四国の鉄道の要衝「多度津町」
76番札所金倉寺の参拝を終え、私はお寺のすぐ裏側にある釜あげうどんの名店「長田in香の香」でさぬきうどんを堪能してから、一路北に向かいます。
※「長田in香の香」の様子は、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【長田in香の香】芯までアツアツうどんをアツアツ瓢箪から注ぐつけだしにくぐらす「釜あげうどん」
田園地帯を歩くことほどなくして、たくさんの札所があった善通寺市を後にし多度津町(たどつちょう)に入ります。
ここ多度津町は、昔から四国の鉄道の要衝として栄えた街で、明治22年(1889年)5月にのちの国鉄・JRの路線となる四国で初めての鉄道(丸亀―琴平)が走り、「JR多度津駅」は高松と高知を結ぶJR土讃線の起点として、「四国旅客鉄道多度津工場」は長い歴史を持つ車両整備工場として、現在でも重要な役割を果たしています。
町の面積はとても小さいですが、四国遍路においても、別格18番海岸寺と、この記事でご紹介する77番札所道隆寺がある要所になっています。
桑畑から始まったお寺は高僧が相次ぎ栄える
金倉寺から歩くこと約4km、田園地帯から沿岸部の市街地が見え始めたところで、77番札所道隆寺に到着です。
道隆寺の縁起によると、奈良時代初期の和銅5年(712年)、この地の一帯は桑畑で、領主「和気道隆(わけみちたか)」が周囲5m近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいたそうです。
嘆き悲しんだ道隆は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという伝説が残っており、これがお寺の創建のきっかけになったとのこと。
その後、道隆の子「和気朝祐(わけちょうゆう)」が、唐から帰国した空海に懇願し、90cmほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父「道隆」の像を納めて御本尊とし、父の名から寺名を「道隆寺(どうりゅうじ)」とし、自らが第2世住職となったそうです。
その後、第3世には空海の実弟「真雅(しんが)」(のちの「法光大師(ほうこうだいし)」)、第4世には76番札所「金倉寺」の記事でご紹介した「円珍(えんちん)」(のちの「智証大師(ちしょうだいし)」)、第5世には「聖宝(しょうぼう)」(のちの「理源大師(りげんだいし)」)という高僧が相次いで住職となり、お寺はたいへん栄えた歴史をもちます。
※「円珍」ゆかりの76番札所「金倉寺」については、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【76番札所金倉寺】「智証大師円珍」生誕の地は乃木将軍の宿舎にも使われたお寺
その後は、地震や兵火による被害を受け、興亡を繰り返し、現在はコンパクトな境内になっていますが、草創期をしのばせる多くの堂塔が所狭しと建っています。
全国の観音様が一堂に会するお寺
道隆寺の特徴・見どころといえば、なんといっても境内の無数の観音様です。
このたくさんの観音様は、観音霊場として著名な西国・秩父・板東の百観音をはじめ、全国の名高い水子供養や交通安全の観音様など、225躯が安置されているとのことです。
全ての観音様にお参りするのは到底不可能なので、祈願したい内容にあった観音様を見つけてみてください。
また、本堂左裏手にある「潜徳院殿堂(せんとくいんでんどう)」は、江戸時代後期の丸亀・京極藩の典医「京極左馬造」のお墓で、左馬造は幼少のときは盲目でしたが、道隆寺の御本尊「薬師如来」に祈願して全快し、その後医者となり眼病の達人と呼ばれたそうで、このお堂に眼病平癒を祈願する参拝者が多く、御本尊は「眼なおし薬師さま」としても有名なのだそうです。
77番札所道隆寺では、境内に所狭しと並ぶ観音様やお堂をじっくりと拝観したいお寺です。
【77番札所】 | 桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ) |
宗派: | 真言宗醍醐派 |
本尊: | 薬師如来 |
真言: | おん ころころ せんだり まとうぎ そわか |
開基: | 和気道隆 |
住所: | 香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3番30号 |
電話: | 0877-32-3577 |